花火づくりの修行と大学院での花火研究
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1970年鍵屋14代目の次女として誕生。 |
※黒字=天野安喜子 氏
── 鍵屋は350年以上の歴史があるそうですね。当主を継ぐ際は、いろいろな葛藤がありましたか。
葛藤はありませんでしたね。幼い頃から父の姿を見て、父に憧れていましたから。私は女の子としてはたぶんちょっと変わっていて、「父のようなヒトのお嫁さんになりたい」と考えたことはなくて、「父のようになりたい」といつも思っていました。
小学2年生で柔道を始めたのも、父が柔道場の館長で、天野家では花火と柔道は切り離せないものだったからです。当主になった時は、父がやってきたことをごく自然に受け継ごう、という感じでしたね。
── 柔道は今も続けているのですか。
![]() 伝統の「宗家花火鍵屋」のはんてんを着用し
副館長を務める「天野道場」に鎮座する天野氏 |
大学卒業時に選手生活からは引退しましたが、現在も、道場の副館長を務めているほか、国際試合などで審判をやっています。高校1年生の時に、日本のマークを付けて国際大会でメダルをとったのが、現役時代の一番の思い出です。
── 家業を継ぐ前に、花火職人としての修行はしたのでしょうか。
花火工場で2年間修行させていただきました。鍵屋はいろいろな工場や職人さんとつながりがありますが、あえて「これまでお付き合いのない工場に行かせてほしい」と父に頼みました。厳しい環境に身を置くことで、一日も早く花火づくりの技を身に付けたいと思ったからです。
── 修行生活ではどのようなことを学びましたか。
花火づくりの現場では、すべてを手取り足取り教えてくれるわけではないので、自分から技や知識を盗まなければなりません。花火づくりの基本的なスキルだけではなく、そのような貪欲な姿勢を身に付けられたこと。それがあの期間の何よりの収穫だったと思います。大変貴重な時間を過ごさせていただきました。
── 名刺には「芸術学博士」とありますね。
ええ。15代目となってから、花火について改めて学びたいと考え、日本大学芸術学部の大学院に入学したんです。それまで花火は工学の一分野として位置づけられていて、芸術学の分野で花火を研究するという例はなかったようです。日本では私が初めてだったのではないでしょうか。
── 具体的に、どのようなことを研究したのですか。
![]() 芸術学博士号を取得した天野氏の博士論文
「打ち揚げ花火の『印象』─実験的研究による考察─」 |
観客が花火に対してどのような印象を抱いているかをテーマにした研究です。観客の皆さんのアンケートを基に印象評価語を作成し、その後、実験的研究による考察として博士論文をまとめました。
一般には花火の色や形に注目する人が多いと考えられていますが、アンケートの結果では、「音」に対する印象が非常に強いということが分かりました。私は花火の音に魅了されてこの世界にいますから、この結果を見た時にはうれしかったですね。
── 当主になってからの14年間、どのような変化がありましたか。
はじめの数年は、周囲からの期待に応えようとすることで必死でした。「期待しています」と多くの方から言っていただくのですが、具体的に何に期待されているかが示されるわけではありません。期待への応え方は自分で考えていかなければならないわけです。
![]() 花火玉(レプリカ)を傍らに
インタビューに応える天野氏 |
だんだん分かってきたことは、花火師としての技術だけでなく、人間性が問われているということでした。例えば世の中の出来事について「15代目はどう考えますか?」と聞かれます。それに対して、まさしく鍵屋の当主としての言葉を返していかなければなりません。回答する言葉を選びましたね。
── それは大変な重責でしたね。
すごく肩に力が入っていたと思います。でも周囲から信頼していただけるようになるにつれて、「自分」に対して格好つけなくていいんだと思えるようになりました。職人たちのやる気やセンスを引き出すこと、素晴らしい花火を上げて観客の皆さんに喜んでいただくこと、大会の主催者に満足していただくこと。
大事なのはそういうことであって、自分の振る舞いをどれだけ立派に見せるかということは、どうでもいいんじゃないかって。それに気づいて初めて、「素の自分」として自然に振る舞えるようになりましたね。今は、「こんな私でよろしければ、お付き合いください」という感じです。