いにしえの美しい甲冑を再現したい
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1934年東京生まれ。 |
稲作が普及し、集落の形成と財の蓄積が進んだ弥生時代以降、日本人は数え切れないほどの戦(いくさ)を繰り返してきた。平安時代になって戦いを職能とする武士階級が登場してからは、日本の歴史は武士同士による戦いの歴史とほぼ同義となった。武士集団が参加した最後の戦いは、寛永14年(1637年)に天草と島原で起きたキリシタンを中心とする百姓一揆を鎮めた島原の乱である。
その長い戦いの歴史の中で、防具である甲冑も時代ごとの発展を見せてきた。島原の乱を最後に太平の世となった後も、武家では男子が生まれるごとに新品の甲冑を作り、誕生を祝ったという。甲冑作りを手掛けていたのは、甲冑師、もしくは具足師と呼ばれる職人たちであったが、明治以降その職能は必要とされなくなり、いつしか技術も途絶えていった。
![]() 加藤鞆美氏
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江戸甲冑を作る現代の甲冑師、加藤鞆美氏の祖父は、もともと漆工芸を手掛ける蒔絵師だった。その祖父が五月人形の鎧を作ったところから、甲冑職人としての加藤家の歴史は始まった。江戸甲冑とは、実際に使われていた甲冑を忠実に再現して作られる五月人形や観賞用工芸品を意味する。江戸甲冑の職人は、現在10人を数える程度だ。
江戸甲冑の五月人形は、2分の1、3分の1といった縮尺で作られる場合が多いが、主に甲冑の愛好家からのオーダーによって制作される工芸品の中には、鎧の一部を原寸大で再現したものも少なくない。原寸大の甲冑をフルセットで作ると3000万円を下らないという。
初代の祖父は歴史考証にこだわらず自由に人形を作っていたが、二代目となる加藤氏の父は、古い鎧や兜を徹底的に再現することをめざした。
「日本の甲冑は世界のあらゆる国の甲冑の中で一番美しい。生前、父はそう言っていました。その美しい甲冑を再現して、人形や工芸品の形で後世に残していこうと考えたわけです」
甲冑技術の伝承はすでに絶えている。加藤家はもとより近代以前の甲冑師に連なる家系ではなく、家に伝わる資料があるわけでもない。加藤氏の父は、絵描きをともなって日本全国の博物館、神社、武具を所蔵する個人宅などを回って甲冑を写生し、それを基に甲冑作りを行った。どれほど困難で、またどれほどやりがいのある作業だったか。
三代目となる加藤氏が、体が丈夫ではなかった父の仕事を手伝い始めたのは11歳の頃だった。それから70年。父の流儀を受け継ぎながら、「世界で最も美しい甲冑」を再現する仕事を続けている。
死にゆく者たちを送る華麗な意匠
鎧には大きく分けて5つの種類がある。すなわち、大鎧、胴丸、腹巻、腹当、当世具足である。五月人形などで一般に知られているのが大鎧で、大袖、脇盾、草摺(くさずり)、兜などがそろった上級武士用の甲冑である。現存する数は非常に少なく、日本全国でも40領程度といわれる。大鎧の兜に鍬形(くわがた)と呼ばれる角のような金属板が施されるようになったのは平安時代中期から鎌倉時代にかけてのことで、武将が自分の存在を示し、敵に対して権勢を誇る意味合いがあった。
![]() 大鎧の兜
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一方、胴丸、腹巻、腹当は、馬に乗らない下級の徒侍(かちざむらい)が胴体に着けたものだ。より堅固な鎧である当世具足が主流となるのは安土桃山時代以降で、これは西洋から伝来した鉄砲の弾を防ぐことを目的に開発されたものだった。胴を一枚の鉄板で覆うなど、防御という意味では非常に合理的であった当世具足だが、あらゆる階級の武士がこの鎧を身に付けることによって、武士の位階を鎧によって表すことが難しくなった。そこで多くの戦国武将は、個性的な兜を作り、自身の位と権勢を示そうとした。真田幸村の鹿の角の付いた兜、加藤清正の烏帽子のような長い兜、黒田長政の水牛の角や巨大な鉄板を付けた兜などはそうして生まれたものである。
加藤氏はこれまで、信長、謙信、秀吉、家康など、有名武将の甲冑を数々手がけてきたが、中でも五月人形として最も人気があるのが伊達政宗の鎧だという。
「戦国武将の多くは悲劇的な最後を迎えていますから、子どもに贈る五月人形に武将の名を付けないでほしいという方も少なくありません。しかし、伊達政宗だけはなぜか人気で、注文が絶えません」
加藤氏自身がとりわけ気に入っているのは、南北朝時代の大鎧だ。
「この頃の鎧には銀が使われているのですが、残っているものを見ると、銀が一切黒ずむことなく、おそらく当時の色をほぼそのまま保っていると思われます。なぜそんなことが可能なのか。いろいろ調べてはみたのですが、まだ理由は分かりません」
![]() 華やかな鎧には武士の威厳と並々ならぬ覚悟が込められている
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時代ごとに、あるいは武将ごとに甲冑の意匠は異なる。ディテールに至るまで徹底的に工夫を施された日本の甲冑は、まさしく世界に類を見ないものだ。しかし、鎧は防具であり、戦いの道具である。なぜ、そこまでの工夫や華美な意匠を施さねばならなかったのだろうか。
「もちろん、武士としての威厳を示すためという意味があったと思います。しかし、それ以前に、鎧は死に装束であったからであると私は考えています。甲冑の装飾とは、死を飾るためのものだったのではないでしょうか」
戦乱の世にあって戦い続けることを宿命づけられた武士たちは、出陣に際して甲冑を身にまとうことによって、生きては帰ってこられぬと覚悟を決めた。もし自身の身が果てても、華やかな鎧は残る。そう思うことで、彼らは死地に臨むことができたのだろう。「世界で最も美しい甲冑」は、そんな勇ましくも悲しい武士たちの心境から生まれたということだ。
