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平成の世にサムライを探して 

【第九十四回】書家 金澤翔子「ダウン症の書家が母と共につくり上げた書の世界──深い闇を抜け二人で見いだした光明」

ダウン症児として生まれながら、5歳で書の道に入り、20歳にして書家としてデビューした金澤翔子氏。歴史ある名刹に作品を奉納し、NHK大河ドラマ『平清盛』の題字を手掛けた彼女は、いかにして一流の書家となったのか。2012年には、お客様情報誌「プロワイズ」の表紙題字も担当いただいた書家・金澤翔子氏の凄絶な歩みを、共に生きてきた母、泰子氏に語ってもらった。

闇に落ち込まなければ光も見えない

金澤翔子(かなざわしょうこ)プロフィール

1985年東京都生まれ。号は小蘭。
5歳で母、金澤泰子氏(号は蘭凰)に師事し書道を始め、10歳で般若心経を書く。
20歳の時に銀座書廊で個展「翔子・その書の世界」を開催。これを機に、鎌倉の建長寺や京都の建仁寺に書を奉納するようになる。
2011年には奈良の東大寺でも席上揮毫を行った。

※黒字=金澤泰子氏

── 翔子さんが書を始めたきっかけについてお聞かせください。

翔子が5歳になった時、小学校の普通学級に入学できることになったんです。私たち親子は、それまでずっと孤独に生きてきましたから、この子には友達があまりいませんでした。でも、学校に通うことになったら、友達がいないとかわいそうじゃないですか。それで、翔子の友達づくりのために、自宅で書道教室を始めたわけです。それからですね、翔子が書を書くようになったのは。

最初、生徒は翔子を含めて4人だけでしたが、その後、口コミで評判が広がって、すぐに100人以上の生徒さんが通ってくるようになりました。

── お母様自身、もともと書道をやっていらしたのですか。

ええ。私の両親も、亡くなった主人の両親も書をやっていて、私自身も子どもの頃から書に親しんでいました。でも、書に本当にのめり込むようになったのは、翔子が生まれてからです。この子がダウン症児として生まれてから、私は本当に深い絶望の中で生きていて、何とか心を落ち着けようと始めたのが写経でした。

そんな姿を、翔子はずっと見ていたんです。この子は、言葉を発することは苦手だけれど、見る目はしっかりしているんですよ。私が書に取り組んでいる姿を見て、自然に覚えたのでしょうね。字をきちんと教えたことはないのに、筆の持ち方を教えたらすぐに書けるようになりました。門前の小僧習わぬ経を読む、といいますが、まさにそんな感じでしたね。

── 漢字を書くようになったのは、いつ頃からですか。

金澤翔子氏の写経(図録) 小学校4年生に進級する時に、学校から、ほかの子たちと一緒に普通学級で教えるのは難しいと言われました。特別支援学級のある学校に移ってほしいと。再び、私は悲嘆に暮れました。その学校は遠くて、通うのにとても時間が掛かるんですよ。半ばやけになっていたのでしょうね。結局、学校に通うのをやめさせて、また親子だけの孤独な生活を始めました。

学校に行かなくなると、時間だけは茫洋とあります。その有り余った時間を埋めるために、それから、私自身のやるせない気持ちを癒やすために、翔子に般若心経の写経をやらせることにしたんです。大きな紙に罫線を引いて、一文字一文字、筆で書かせました。紙4枚で約270文字。最初は、それだけ仕上げるにも大変な時間が掛かりましたが、そのうちに慣れてきて、4000万字くらいは書かせました。あれで翔子は、漢字を知り、書き順を学んだんです。10歳の頃でした。今にして思えば、あそこで書の基本がある程度できたのではないでしょうか。

── 学校に通えなくなったことが、結果的に書の道に進むきっかけとなったわけですね。

そうです。もしあのまま普通学級に通えていたら、今頃、翔子は書をやっていなかったでしょうね。闇に突き落とされ、必死に道を探して、どこかに光明を見つけて、歩き始める。闇に落ち込まなければ、光も見えない──。そんなふうにして、私たち親子はこれまでずっと生きてきました。

書があったから二人は生きてこられた

── それからずっと書道を続けてきたのですか。

翔子はいつも喜んで書いていました。この子には、何かを嫌がるという感情がないんですよ。物事をネガティブに捉えることがないんです。私は書道の教師としてはかなり厳しい方だと思うのですが、どれだけ叱っても、書き終わった時は「ありがとう」と私に言っていました。

── その後、20歳で最初の個展を開かれたわけですね。どのようにして実現したのですか。

金澤翔子氏と母 泰子氏あれもやはり、闇に突き落とされた経験がきっかけでした。翔子は高校では養護学校に通いました。そして卒業後は作業所に入る予定で、説明会にも行きました。そこで、ある事件が起こりました。養護学校から作業所に内申書が渡されるのですが、それが誤って、親である私に渡されてしまったのです。それを読んだ私は、大きく落ち込みました。そこには、こう書かれていました。「子育て能力のない、だらしのない母親」──。

私の主人は、翔子が14歳の時に亡くなりました。生前は幅広い事業を手掛けていて、関わっている会社は10を超えていました。私はその事業を引き継いで、その頃は毎日必死に働いていたんです。だから、翔子に十分に手を掛けてあげられなかったのは確かだと思います。でも、その内申書の記述は、あまりにもひどかった。もう翔子を作業所に通わせる気力もなくなり、また二人で家に閉じこもる生活に戻ってしまいました。

そんな時に支えになったのは、主人が残した言葉でした。彼は急に亡くなったので、遺言を残すことができなかったのですが、「翔子は書がうまいね。20歳になったら個展を開こうよ」とよく言っていたのを思い出したのです。それを主人の遺言と考え、20歳での個展開催を目標に生きることに決めました。それから毎日毎日、書に取り組む生活が始まりました。それが、翔子が18の時でした。

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