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【平成の世にサムライを探して】第十回 星野佳路-前編-目指すは百戦百勝のリゾート再生請負人。|システム構築やトータルソリューションをお探しなら、日立ソリューションズをご利用ください。

星野佳路-前編-目指すは百戦百勝のリゾート再生請負人。

軽井沢の 老舗温泉旅館「星野温泉旅館」の3代目に生まれた星野さんは、早くからこのビジネスを継承することを自覚。米国に留学して、近代ホテル経営を学んで帰国するものの、そこで見たものは旧態依然とした家業としてのホテル経営でした。星野温泉旅館のトップの座に就任後、次々と大胆な変革を断行。競争力の高い収益体質を身につけるに至りました。それだけではなく、日本全体がリゾート不況にあえぐ中で 「リゾート運営の達人になる」を会社のビジョンとして掲げ、経営破綻した大型リゾートの運営を次々と行い、よみがえらせることにチャレンジされています。

アイススケートが好きで得意だったスポーツ少年

星野佳路(ほしのよしはる)プロフィール
1960年、長野県生まれ。
慶應義塾大学経済学部卒業後、1986年米国コーネル大学ホテル経営大学院にて経営学修士号を取得。シティバンク勤務を経て91年1月、星野リゾートの前身である星野温泉の社長に就任。エコツーリズム、地ビール事業への進出、ブライダル事業路線の改革など次々と妙案を打ち出し、2001年以降は、リゾナーレ小淵沢(山梨県)、アルツ磐梯リゾート(福島県)、アルファリゾート・トマム(北海道)などの再建を手がけている。

激しい人、凄まじい人と聞いていた。アイスホッケー経験者というからガタイもいいに違いない。だから、「軽井沢の星野です」と、むしろ華奢といえる体格の人から穏やかにあいさつされたときは、緊張していたこちらの力がふっと抜けた。しかも、写真で拝見していたより若い。なにか抱いていたイメージが違う。こちらの勝手な想像だったのだが。

実家は老舗の温泉旅館。今は星野リゾートという名称だが、元は星野温泉といい、中軽井沢に28万坪の緑豊かで広大な敷地を持つ。開業は大正時代、内村鑑三や土井晩翠などを始めとする、多くの知識人・文化人に愛された名湯だった。敷地内にある軽井沢高原教会は、結婚式を挙げたい教会の筆頭として若い女性の憧れの的だ。星野さんはこの老舗旅館の三代目。トップに就任するや矢継ぎ早に改革(策)に乗り出し、日本全体がリゾート不況にあえぐ中で収益性の高い競争体質を発揮するに至っている。それだけではなく、破綻に追い込まれた大型リゾートの再建に次々乗り出し、いずれも成功させている。まさに必殺リゾート再生請負人だ。

子供の頃の星野さんは、典型的なスポーツ少年だったという。しかし、そのスポーツは野球ではない、アイススケートだ。1960年代から70年代にかけては全国的にアイススケートがブームであり、ましてや星野さんが育った長野県はウインタースポーツが盛んな場所である。彼は4歳のときにこれを始めた。10月も後半になると、家の池や周辺の田畑など水気のあるありとあらゆる場所に氷が張る。星野さんは学校から帰ってランドセルを置くや、スケート靴をかかえて表へ飛び出していく子供だった。勉強はあまり好きではなく、まさにスケートばかりしていたそうだ。では、氷のない季節にはどうしていたのだろう。そのときは東京から休みを過ごしに別荘へやってくる子供たちと遊んでいた。星野さんには“夏だけ一緒に遊ぶ友達”というのがいて、毎夏「やあ」と再会しては、まるで昨日の続きのように山や川で一緒に遊んだという。

小学校卒業後、星野さんは慶應義塾大学附属中学校に進む。別に代々慶應に行くと決まっていたわけではなく、これはお母さんの意図だった。星野さんがあまり勉強しないので、このままでは受験勉強で苦しむことになるとの思いで、私立の一貫教育を受けさせることに決めたのだ。星野さんはお母さんにいわれたことを覚えている。「今だけちょっと勉強すれば、あとは一生受験勉強しなくてすむから」星野さんもそれはすばらしいと思い、ちょっとだけ中学受験をがんばって無事に合格する。

星野氏初めての寮生活だったが、若かったこともありすぐに順応した。長野と東京の差を感じることもあまりなかった。だが、そんな星野さんに友達はあだ名をつける。木曽義仲(きそのよしなか)ならぬ木曽佳路(きそのよしはる)。
「自分では東京になじんだつもりだったけれど、どことなく自然児っぽさをかもし出していたのかもしれません(笑)」(星野さん)。

ここでも彼はスケート中心の生活を送った。東京にはスピードスケートのトラックがないため、アイスホッケーに転向。品川プリンスホテルにあるアイスホッケースクールに通う。中学2年、中学3年、高校1年と3年続けて、夏休みにはカナダで開かれるアイスホッケーキャンプに参加したりもした。まさにスケート漬けの青春だったが、星野さんにはもうこの頃から「自分は家業を継ぐのだ」という自覚があった。反発はなかった。実家の豊かな自然に囲まれた環境が好きで、そこで一生を過ごすことに何の疑問もなかった。アイスホッケーは好きだったが、特にこの道で食べていこうという思いはなかったという。実業団に進もうと思えば、大学から一部リーグでプレーしているような強いところに入る必要があったが、残念ながら慶應義塾大学はそうではなかった。

それにしても、アイスホッケーは“氷上の格闘技”と呼ばれるほど激しいスポーツである。大きなケガをしなかったのだろうか。つい星野さんの全身をしげしげと眺めてしまう。「アイスホッケーは防具が進んでいますからね。やっているときはそれほど危険は感じないものなんですよ。僕はたいしたケガはしませんでした。骨を一回折ったのと、前歯を全部なくしたぐらい。ましな方です。治りますからね」。

そういって星野さんはニッと笑った。前歯を全部。どうも“大ケガ”の概念が根本的に違うようだ。

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