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平成の世にサムライを探して 

【平成の世にサムライを探して】第153回 杜氏 農口尚彦「微生物との対話が生み出す『魂の一杯』」

1000年以上前に今につながる製法が確立したといわれる日本酒。だが、酒造りの奥深さは、酒を愛好する人の間でもあまり知られてはいない。ワインともビールとも異なる複雑で緻密な工程を経て生み出されるその酒造りの世界で「神様」と呼ばれる農口尚彦氏が、その難しさと素晴らしさを語る。

麹菌や酵母菌に自分を合わせることが何より大切

農口尚彦(のぐち・なおひこ)プロフィール

1932年、石川県内浦町(現能登町)生まれ。49年、静岡県富士市の山中正吉商店(現富士高砂酒造)に就職。三重県松阪市の西井酒造、静岡県島田市の大村屋酒造場を経て、石川県鶴来市の菊姫の杜氏となる。97年に退職後、加賀市の鹿野酒造、能美市の農口酒造の杜氏を務め、2017年、小松市の「農口尚彦研究所」の杜氏に就任。現代の名工にも選ばれた。著書に『魂の酒』がある。

日本酒造りは、人間と微生物との共同作業だ。原料となる米のでんぷんを麹菌が糖に変える。その糖を酵母菌がアルコールと炭酸ガスに分解する。その2つが、日本酒造りのメカニズムの中でもとりわけ重要な工程である。麹菌と酵母菌という2種の微生物に十分な働きをしてもらうだけでなく、それ以外の雑菌の働きを防ぐことが酒造りに携わる人間の役割となる。古くから日本酒の仕込みが冬の間に行われてきたのも、雑菌が繁殖しにくい寒い季節を選んでのことだ。

「麹菌や酵母菌はものを言いません。だから、こちらから菌に合わせていかなければならないんです。菌に対して自分も正直になって、菌に何が必要かを考えること。それが酒造りで最も大切なことだとわしは思っています」

農口尚彦氏の画像
農口尚彦氏

そう話すのは、「日本酒の神様」とも呼ばれる杜氏(とうじ )、農口尚彦氏である。16歳で酒造りの世界に入って69年。歴史ある全国新酒鑑評会で通算27回の金賞を受賞してきた伝説的な杜氏だ。

原料米の表面を削り取る「精米」から日本酒造りの工程はスタートする。かつての酒税法では、アルコール度数と酒質に応じて「特級」「一級」「二級」と分けられていたが、現在では米を磨いた割合、すなわち「精米歩合」によって酒の種類が決められている。本醸造酒が70%以下、吟醸酒が60%以下、大吟醸酒が50%以下といった具合である。大吟醸酒の中には精米歩合35%というものもあるが、この場合、原料米の実の65%を削り取って、中心部分のみ使っているということだ。それによって、米の外側にあるタンパク質や糖分が取り除かれ、雑味の少ない清澄な味わいの酒が生まれることになる。

麹を口に含み、硬さ、香り、味などを確認する。「いい麹がいい酒を造る」というのが農口氏の信念だ
麹を口に含み、硬さ、香り、味などを確認する。「いい麹がいい酒を造る」というのが農口氏の信念だ

その後、米を洗う「洗米」、米に水分を吸収させる「浸漬」、米を蒸し上げる「蒸米」のプロセスを経て、麹菌を米に繁殖させる「製麹(せいきく)」と、日本酒造りは進んでいく。ここで造られた麹に、さらに蒸米、水、そして酵母菌を加えて造られるのが酒のもととなる「酒母」で、これは「酛(もと)」とも呼ばれる。

日本酒造りがとりわけ独特なのは、ここからの「仕込み」のメカニズムだ。麹菌による糖化と、その糖を酵母菌がアルコールに分解する過程が酒母の中で同時に進んでいく。いわば、麹が造り出す糖を酵母が次々に食べてアルコールに変えていくようなイメージである。日本酒がワインやビールなどのほかの醸造酒と比べてアルコール度数が高めになるのは、アルコールのもととなる糖が次々に供給されるこの「並行複発酵」と呼ばれる製法による。

こうして出来上がった「醪(もろみ)」を搾り、濾過すると原酒が生まれる。そこからアルコール度数を整える調合などをし、さらに濾過と火入れを行って瓶詰めをすれば、出荷状態の日本酒となるわけだ。

酒の良しあしは飲んだ人の目を見れば分かる

蔵の外観。ロゴマークは、農口の「の」と、酒を飲む猪口の底に描かれている「蛇の目」をあしらったもの
蔵の外観。ロゴマークは、農口の「の」と、酒を飲む猪口の底に描かれている「蛇の目」をあしらったもの

祖父も父も杜氏という「名門」に生まれた農口氏が酒造りの世界に入ったのは1949年、中学を卒業した後だった。静岡や三重の酒蔵で働き、25歳で蔵人(酒造りの職人)をまとめる頭(かしら)となった。故郷・石川の銘醸蔵「菊姫」の杜氏に抜擢されたのは28歳の時だ。杜氏は酒造りの現場の責任者で、その手腕によって酒の味が決まる。その役職に20代で抜擢されるのは異例のことだった。

しかし、農口氏の本当の試練が始まったのはここからだった。それまで彼が学んできたのは東海の酒造りである。淡麗で香りが良い「きれいな酒」が東海地方の酒の特徴だ。しかし、そんな軽やかな酒を石川の人たちは受け入れてくれなかった。

ずらりと並ぶ仕込み用のタンク。後壁に書かれた農口氏の言葉が、蔵人たちを鼓舞する
ずらりと並ぶ仕込み用のタンク。後壁に書かれた農口氏の言葉が、蔵人たちを鼓舞する

「朝から山仕事に出て、丸一日働いて腹をペコペコに減らして帰ってくる男たちが好むのは、濃くて重い酒です。塩をちょっとなめて、酒をコップに2杯ぐいっと立て続けに飲む。その酒がすきっ腹にどーんと効いて、1日の疲れが全部吹き飛ぶ。そうして、明日もまた頑張って働こうと思う。そんな飲み方をする男たちにとって、わしが造る酒は全く物足りなかったんですね」

五臓六腑に染みわたる濃くて重たい酒。農口氏が造ったのは、それとは正反対の飲み口のいいキレのある酒だった。どうすれば、石川の人に喜んでもらえる酒が造れるか──。農口氏の格闘が始まった。

自身の巨大な写真が蔵人を見つめる現場にて。85歳になった今も、現場に入ればすぐに勝負師の顔になる
自身の巨大な写真が蔵人を見つめる現場にて。85歳になった今も、現場に入ればすぐに勝負師の顔になる

「地元の人に本当に喜んでもらえる酒が造れるようになるまで、それから10年かかりましたね。自分が好きなように造ったら駄目なんだ。お客さんに喜んでもらえるように造らなければ駄目なんだ。そのことを、あの時に心底学びました」

格闘を支えてくれたのが、当時の菊姫の社長、柳辰雄氏だった。「うちの酒は農口に任せてある」といって、彼を時にかばい、時に鼓舞してくれたという。

左/蒸米に麹菌を振りかける。手の微妙な振動によって、米に落ちる麹菌の量を調整する。右/ビーカーにブドウ糖、ペプトンなどを入れて酵母の培養液をつくる。ここに酵母菌を入れて、2昼夜をかけて酵母を培養する
左/蒸米に麹菌を振りかける。手の微妙な振動によって、米に落ちる麹菌の量を調整する
右/ビーカーにブドウ糖、ペプトンなどを入れて酵母の培養液をつくる。ここに酵母菌を入れて、2昼夜をかけて酵母を培養する

酒造りにおける製麹の大切さを実感するようになったのは、そんな格闘の中でだった。米の表面の水分を適度に飛ばし、中心部分に水分を集中させると、麹菌が米の奥まで菌糸を伸ばすようになる。菌糸が一粒一粒の米に深く食い込むことによっていい麹ができて、それが酒の味を決める。そう農口氏は言う。いい麹を造るには、麹の状態に応じて温度と湿度を調節しながら、夜中に何度も米の様子を見に行かなければならない。米を手ですくい、指先で硬さを感じ、口に入れて状態を確認する。麹菌によって糖化しているから米は甘い。その甘い米を何年にもわたって繰り返しかんでいるうちに歯はボロボロになって、40歳で総入れ歯になった。そうやって麹菌と対話し、丁寧に麹を育てることが、本当にうまい酒造りには欠かせない。それが今日まで変わらぬ農口氏の信念だ。

上/洗米の風景。単に米を洗うのではなく、適度な水分を米に吸わせるための作業でもある。下/洗米は秒単位のデリケートな作業。洗った米を黒い皿の上に載せて状態を確認する
上/洗米の風景。単に米を洗うのではなく、
適度な水分を米に吸わせるための作業でもある
下/洗米は秒単位のデリケートな作業。
洗った米を黒い皿の上に載せて状態を確認する
上/酒造りでは一般に「種酵母」を購入して使う場合が多いが、農口氏は瓶の中で自ら培養した酵母も使っている。酵母培養には高額な機材が必要になる。下/洗米して適度な水分を吸収した米。この米を蒸して、製麹、酒母づくり、仕込みの3段階に分けて使用する
上/酒造りでは一般に「種酵母」を購入して使う場合が多いが、農口氏は瓶の中で自ら培養した酵母も使っている。酵母培養には高額な機材が必要になる
下/洗米して適度な水分を吸収した米。この米を蒸して、製麹、酒母づくり、仕込みの3段階に分けて使用する

もう1つ、農口氏がこだわってきたのは「山廃仕込み」と呼ばれる製法である。これは酒造りの用語の中でも、最も説明が難しいものの1つだ。

酒の甘辛の度合いを表す日本酒度、アルコール度、アミノ酸度など、もろみの状態を示す数値を連日記録する

酒母を造る際は、酵母菌以外の雑菌の侵入を防がなければならない。そのために必要なのが乳酸で、その働きによって酒母内が酸性になり、雑菌が侵入できなくなる。その乳酸の自然生成を待って造った酒母が「生酛(きもと)」であり、工業生産された乳酸を添加して短期間で造った酒母が「速醸酛(そくじょうもと)」である。

乳酸添加の技術が開発される前の酒母はすべて生酛だったが、それを造る前工程で、桶の中に入れた蒸米と麹と水を櫂(かい)ですり潰す「山卸」という作業がかつては必要だった。しかし、酒造技術が向上して麹の力だけで米を溶かすことができるようになって、この手間のかかる作業を省いた酒造りが普及することになった。「山卸廃止」、すなわち「山廃」である。山卸の作業を廃止しながら、乳酸を自然生成させた生酛造りの酒。それが「山廃仕込み」の酒ということだ。時間はかかるが、しっかりとした旨みのある酒ができるのが山廃仕込みで、農口氏がこの製法にこだわることによって、多くの蔵が山廃の酒を復活させるようになったという。

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