第二十回 宮嶋茂樹-前編-不肖・宮嶋が報道カメラマンをめざした理由。|システム構築やトータルソリューションをお探しなら、日立ソリューションズをご利用ください。

平成の世にサムライを探して 

宮嶋茂樹-前編-不肖・宮嶋が報道カメラマンをめざした理由。

「教室にいてもつまらない。生きている楽しさを実感できるのは写真を撮っているときだけ、自分にはもう写真しかないと思った」―― 自衛隊同行取材シリーズを始め、紛争や事件の現場に駆けつけては数々のスクープ写真を発表しているフリーの報道カメラマン“不肖・宮嶋”こと、宮嶋茂樹さん。彼が初めてカメラを手にしたのは小学生のとき。そして高校のときにはすでに写真の世界で生きていくことを心に決めていました。その決意の陰には不世出の報道カメラマン ロバート・キャパへの憧れもあったといいます。今回は宮嶋さんの前半生をお届けします。

ごく普通だった少年時代。
無類のカメラ好きだったことをのぞけば。

宮嶋茂樹(みやじましげき)プロフィール
1961年(昭和36年)明石生まれ。日大芸術学部卒業後、「フライデー」を経てフリーに。「週刊文春」をはじめ、報道カメラマンとして活躍。1996年に東京拘置所の麻原彰晃の撮影に成功、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞受賞。また、フィリピン、ルーマニア、中東、コソボなどを取材。著書に「不肖・宮嶋 踊る大取材線」「不肖・宮嶋 イツデモドコデモダレトデモ」など。自称「写真界のジョージ・クルーニー」「カメラを担いだ渡り鳥」。

お目にかかって最初に思ったことは、「あれっ、抱いていたイメージとずいぶん違うな」ということだった。宮嶋さんの著作を読んだ方なら誰しも、たとえ読まずに彼のホームページをのぞいただけだったとしても、きっとイケイケドンドンな性格な人なのだろうと思うはずだ。きっとこの取材は、話を聞きだすというよりは立て板に水のごとく流れてくる言葉を、「はい」「そうだったんですか」「それで」と相槌を打つことがメインになるのだろうなと思っていた。

ところが、ずいぶん礼儀正しく(イケイケドンドンな性格な人の礼儀が悪いということではないが)、どちらかというとシャイな感じで、こちらの質問に言葉を慎重に選びながら訥々としゃべられる。数々のスクープ写真をものにされている報道カメラマンが、実はこんなに穏やかな方だったなんて、とこちらは半ばとまどいながら、おずおずと取材を始めたのだった。

生まれたのは1961年。兵庫県明石市だから、確かに生粋の関西人ではある。宮嶋さんによると、家庭の経済状況は中の下というところで、ごく普通だったという。宮嶋さん自身もごく普通の子どもだった。一人っ子で親御さんの愛情を一身に受けて育ったのはまちがいないが、特に成績がいいわけでもなく、特に運動神経がいいわけでもなく、クラスでもあまり目立つ方ではなかった。将来は野球選手かパイロットか電車の運転手になりたいと夢みる少年の一人だったのである。

しかし、宮嶋さんには少しだけ他の子たちと違っているところがあった。それはカメラを持っていたことだ。7歳のとき、お父さんがコンパクトカメラを買うというので、それまで持っていた、宮嶋さん曰く「ジャンクカメラ」を譲り受けたのである。ピントも、露出も手動で合わせるタイプで、経年劣化が進んでいたためシャッターがようやくおりるというしろものであった。小学生のおこづかいではフィルムを買うのもままならなかったが、宮嶋少年はどこへ遊びにいくにもそのカメラを持っていき、撮影のまねごとをして楽しんだ。被写体は一緒に遊んでいる友達や当時姿を消しつつあるSLだった。

SL自体にそれほど興味があるわけではなかった。しかし、消えていくものなら残しておこうという健気な気持ちで、日曜日ごとにお弁当を持って同好の同級生3、4人と自転車をかっとばし、播但線を走るSLを追いかけにいった。構図がどうこう、いい写真をどうこうというよりも、写真を撮りに友達と遠出するという行為そのものが宮嶋少年には楽しかったようだ。

そのようなごく普通の子どもだった宮嶋さんだが、私立の中高一貫教育校をめざすべく中学受験をすることになった。これは教育熱心だったお母さんの要望だったらしい。まだ特別自分に将来展望もなかったため、宮嶋さんはその要望に素直に従い、黙々と勉強して、見事兵庫県の名門私立である白陵中学校に入学を果たした。しかし、待っていたのは小学校時代に比べてはるかにレベルの高い授業だった。最初の頃はついていくのに精一杯で、ときどき近所の仲間と草野球に興じるぐらいはできたが、放課後の時間がかなり拘束されるクラブ活動に手を出す余裕はなかったそうだ。

ひと息つけるようになったのは、3年生になってからだった。ここで宮嶋さんは小学生時代から一番自分になじんでいたカメラの世界にもう一度ひたるべく写真部に入る。中学に入ってから、お父さんにせがんで買ってもらった一眼レフカメラを思う存分使ってみたいという思いもあった。このカメラは一人っ子の特権で簡単に手に入れたものかというと、そうではない。宮嶋さんはその頃もう、お父さんの月給の金額を大体把握していた。そこでまず、近所の中古カメラ店に足しげく通って、お父さんのサラリーでぎりぎり買ってもらえそうな商品に当たりをつけた。そして、突然いい子になった。

宮嶋氏勉強しなさいといわれる前に勉強机に向かい、積極的にお使いに出かけ、お父さんの欲していることを先回りして実行するような気遣いを見せた。一週間ほど経ってついに、宮嶋さんの変貌を気味悪がったお父さんが「最近どうかしたのか」と声をかけたのをきっかけに、「実は」と切り出した。野球のグローブ以来の高い買い物だったが、お父さんはそれほど渋りもせずに買ってくれたそうだ。まだ周りで一眼レフカメラを持っている友達などいなかった。

この時代、写真部がある学校自体が珍しく、あっても機材が十分でなく思ったように活動できないというところも多かったのだが、白陵の写真部は文化部の花形的存在で、設備も一通り揃っていた。宮嶋さんは先輩とともに、百貨店の屋上などで行われるカメラメーカー主催の無料モデル撮影会に参加したり、カメラ雑誌のフォトコンテストに応募するなどして、高校に進んだ頃からどんどん写真にのめりこんでいくようになった。親からもらうおこづかいはすべて、フィルムや印画紙の購入費用や現像代につぎ込んだ。宮嶋さんはこの青春時代の只中に、ほかの友達が持っているものをほとんど持っていなかった。その代表格といえるものがレコードで、最初にこれを手に入れるのは大学2年になってからだ。

友人と音楽の話ができないと周囲から浮くことになったと思うが、宮嶋さんにはカメラがあったからまったく平気だった。やがて白陵において「宮嶋は(写真が)うまい」という評判が立つようになり、だんだん自分でも将来は写真の道に進みたいと思うようになった。一つには高校に入って一段と授業が難しくなり、勉強に対してモチベーションが維持できなくなっていたということがあった。教室にいてもつまらない。生きている楽しさを実感できるのは写真を撮っているときだけ、自分にはもう写真しかないとすら思った。しかし、自信の裏づけとしたかったフォトコンテストにはことごとく落選したそうだ。当時の宮嶋さんはこれを陰謀だと思っていたらしい。最優秀に選ばれた作品を見ても、ちっともうまいと思わない。むしろ自分の方がうまい。

「たぶん選ばれる作品は最初から決まっていて、それをカモフラージュするために一般公募という形をとっているに違いない、たちの悪い陰謀だと思っていました(笑)」。

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