第二十一回 宮嶋茂樹-後編-カメラマンだからこそ、人が見ない有事を見られる。|システム構築やトータルソリューションをお探しなら、日立ソリューションズをご利用ください。

平成の世にサムライを探して 

宮嶋茂樹-後編-カメラマンだからこそ、人が見ない有事を見られる。

「反戦を訴えたいだとか、平和な世界を実現したいだとか、そんな気持ちはこれっぽっちもありません。私はただ単に有事が好きなんです。不謹慎だと思われるかもしれませんが、実際そうなんです」―― 自衛隊同行取材シリーズを始め、紛争や事件の現場に駆けつけては数々のスクープ写真を発表しているフリーランスの報道カメラマン “不肖・宮嶋”こと、宮嶋茂樹さん。今回は写真週刊誌の専属カメラマンとして社会に出て、どん底時代を経て唯一無二の存在となる今日までの後半生を追いかけます。歯に衣着せぬものいいで、批判を浴びても言を曲げず、ひたすらにわが道を行く姿はまさにサムライです。

一年目から求められたプロ意識、
しゃにむに働くうちに社会報道への思いが募る

宮嶋茂樹(みやじましげき)プロフィール
1961年(昭和36年)明石生まれ。日大芸術学部卒業後、「フライデー」を経てフリーに。「週刊文春」をはじめ、報道カメラマンとして活躍。1996年に東京拘置所の麻原彰晃の撮影に成功、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞受賞。また、フィリピン、ルーマニア、中東、コソボなどを取材。著書に「不肖・宮嶋 踊る大取材線」「不肖・宮嶋 イツデモドコデモダレトデモ」など。自称「写真界のジョージ・クルーニー」「カメラを担いだ渡り鳥」。

「フライデー」では一年目からプロフェッショナルであることが求められた。いったん編集部を出ていったら、何かネタをつかんできて当たり前。報道各社がひしめく大事件なら、他社よりいい写真を撮ってきてこそ一人前として扱われる世界だった。他社はカメラマンが何人もいたから他社よりいい写真がとれませんでした、というような言い訳は通用しない。どこにいようがどんな状況であろうが、「フライデー」の写真として発表できるものをカメラに収めるまでは帰れない。

宮嶋さんのそんなハラをくくった報道姿勢のその基礎が築かれたのがこの時期だった。尾行でも、張り込みでも、決定的瞬間をモノにするためなら何でもした。行けといわれたら、頭を動かす前にまず体を動かす。機動力を養うために、カメラマンにはそんな修業も必要なのだ。その一方で、時事報道の分野へ進みたいという思いが宮嶋さんの中で徐々に大きくなる。

「フライデー」編集部での3年目、フィリピンで政変が勃発した。いわゆる1986年の2月政変あるいはエドサ革命といわれる事件で、当時のマルコス大統領による独裁が苛烈になるにつれ、民衆はもとより政界、財界、軍部でも不満が高まっていった。そして、国民の間で人気のあった上院議員べニグノ・アキノ氏が暗殺されたのを契機として、マルコス大統領は失脚、イメルダ夫人とともにアメリカに亡命することになるのである。宮嶋さんはどうしてもこの取材がしたくて、編集部に懇願した。しかし、派遣されるメンバーはすでに決まっていた。あきらめきれない宮嶋さんは、新婚旅行の前倒しで休暇を申請し、それでフィリピンへ行かせてほしいと懇願した。それなら行ってもいいと編集部はOKを出し、宮嶋さんは一人でフィリピンへ飛んだ。

しかし、そのときは思ったほど政変は大きく動かず、一週間の滞在中にはたいした成果をつかめないまま帰国することになってしまった。本格的な動きを見せたのはその一ヶ月後。宮嶋さんは再度行かせてほしいと頼んだ。だが、もう休暇を消費してしまっていること、結婚式を目前に控えていることを理由に、編集部はある芸能人カップルの熱愛報道を追うように宮嶋さんに命じた。それには応じたものの、仕事をしながら“取材するネタを選びたい”という思いが膨らみ、宮嶋さんは編集部を飛び出して、フリーランスになることを決意したのだった。

「若かったんですね。今から考えると完全に思いあがっていました」
宮嶋さんは、たばこの煙をふーっと吐き出しながら笑う。

晴れてフリーランスとなるも、
空回りが続いて困窮を極めたどん底時代

宮嶋氏これで思う存分報道の仕事ができる。ひとときは晴れて自由の身になったことを喜んだ宮嶋さんだったが、世間は甘くないということを気づくのにそれほど時間はかからなかった。出版社、雑誌社は数々あれど、たかだか経験3年のフリーランスカメラマンにすぐに仕事を出すほど編集者はイージーではない。第一、どんな写真が撮れるかわからないのである。過去の作品を見たところで、これから出そうとしている仕事ができるかどうかの参考にはならない。

結局、一度頼んでみないと結果はわからないのだが、どこもそんなギャンブルを好きこのんでする余裕はないから、どうしても実績のあるカメラマンに依頼することになる。ゆえにフリーランスになって日の浅いカメラマンは、編集部の意向に沿う斬新な企画を持ち込むか、自費を投じて写真を撮ってきてその作品を採用してもらうか、そのどちらかしかない。宮嶋さんは後者の道を選んだ。成田闘争など歴史的に意味があると思った事件を取材してはさまざまな編集部に持ち込んだのだが、いっこうに採用されなかった。なぜこの事件の重要さが理解できないのか。宮嶋さんはだんだん、けんもほろろの対応をしたデスクや編集部や出版社に恨みを抱き、世間をすねるようになっていった。

国内外を問わず自分のお金を使って取材をしながら作品が採用されないのだから、貯金はまたたく間に目減りしていった。しかし、その悪循環からどうしても抜け出すことができない。ついには手持ちのお金は底をつき、奥さんのハンドバッグの現金にまで手を出すまでになっていた。見つかると“仕事に必要なんだから仕方ないだろう”と開き直った。このとき、宮嶋さんは二十代半ば。出口の見えないどん底の時代を過ごしていた。

この続きは、日立ソリューションズの会員様向け情報提供サイト『PREMIUM SERVICE WEB(プレミアムサービスウェブ)』をご覧ください。
プレミアムサービスのご案内はこちら >>
PREMIUM SERVICE WEBをご覧いただくにはプレミアムサービスへの会員登録が必要です。
※本サービスは法人のお客様向けに提供しております。法人に所属していないお客様は入会をお断りさせていただく場合がございます。何卒、ご了承下さいますようお願い申し上げます。
プロフィールや記事など、掲載内容は取材時点のものです。現在と内容が異なる場合があります。
見出し、記事、写真の無断転載を禁じます。All Rights Reserved, Copyright (C) 2010, Hitachi Solutions,Ltd.
ページTOP
前回の特集を読む 次回の特集を読む

本記事の内容は公開当時のものです。本コラムに関するご意見等ございましたら、日立ソリューションズまでお問い合わせください。