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【ヒロインの視点】 第1回 持統天皇〜日本の土台をつくった女帝〜

天下のことはすべて皇后に伝えよ

藤原鎌足肖像(菊池容斎画) 飛鳥宮跡 石敷井戸 (飛鳥浄御原宮期の復元遺構)
上:藤原鎌足肖像(菊池容斎画)
下:飛鳥宮跡 石敷井戸
(飛鳥浄御原宮期の復元遺構)
参考:日本遺産ホームページ

即位後、天武天皇は飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)に都を移し、鸕野讚良皇后とともに数多くの政策に取り組みました。10人いた妻のなかで、政務に関わったのは彼女だけでした。天智天皇は藤原鎌足を側近として重用し、さまざまな相談をしながら政治を行ってきましたが、天武天皇の場合、鎌足に相当する相談相手が皇后だったといわれています。天武天皇は一人の大臣も置かず、ほとんどの政務を皇后と考えながら行いました。

天武天皇が最初に着手したのが官人登用の制度化でした。人材を国内から広く集めることを目的としたもので、女性の宮廷への出仕も促進されました。女性は家にいるべしという観念はなく、夫の有無や年齢に関わらず、働く気のある女性は広く採用されたといわれます。伊勢神宮の社殿の整備、中国の律令制度を取り入れた法典「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」の公布、日本最古の流通貨幣といわれる銅銭「富本銭(ふほんせん)」の鋳造、『古事記』や『日本書紀』につながる歴史書の作成、新しい都の建設など、さまざまな事業を天皇と皇后のチームは推進していきます。

吉野の盟約に参加した皇子

天武天皇は皇室のガバナンスにも重きを置き、壬申の乱のような後継者をめぐる骨肉の争いが起きないよう、679年「吉野の盟約」を行います。天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、天皇と皇后は6人を父母を同じくする子のように接し、皇子たちはともに協力するという誓いを立てたのです。皇子の序列は、草壁皇子(くさかべのみこ)が最初、大津皇子(おおつのみこ)が次、最年長の高市皇子(たけちのみこ)が3番目としました。

やがて天武天皇は病に伏せがちになり、天下のことは皇后と皇太子の二人にまかせると公式に発表します。皇太子の草壁皇子はあまり有能とはいえず、実質的には鸕野讚良皇后が政治を取り仕切るようになります。そして686年、天武天皇は崩御します。56歳(一説には57歳)でした。
後継者の草壁皇子は25歳で当時は30歳にならないと天皇として認められないという慣習があり、皇后は「称制」という制度で皇子の後見人として政務を行います。その後まもなく大津皇子に謀反の疑いがあり、やむなく皇子は死罪に。天皇と皇后、6人の皇子たちと交わした「吉野の盟約」が破られてしまいます。大津皇子は皇后の姉ですでに亡くなっていた大田皇女の遺児であり、武芸に優れ、才能も人望もあり、草壁皇子の補佐役として大いに期待していただけに皇后の悲しみは大きかったようです。さらに689年、草壁王子が27歳の若さで亡くなってしまいます。皇后はさらに大きな悲しみに襲われ、わが子を天皇にという願いもはかなく消えてしまいました。

日本のグランドデザインをつくる

草壁皇子の急死によって、鸕野讚良皇后はついに自ら即位します。690年、持統天皇の誕生です。自分の子を天皇にする願いは断たれましたが、草壁皇子には珂瑠皇子(かるのみこ)という子があり、この孫に天皇の座を受け渡すことを新たなよりどころとします。草壁皇子、大津皇子を失いましたが、第3の皇子である高市皇子は存命で彼を太政大臣に任命し、ともに政務を行います。高市皇子は天武天皇の長男で有能な人でしたが、母親の尼子娘(あまこのいらつめ)が皇族ではなかったため、天皇の後継者になる資格がありませんでした。ですが、壬申の乱のときからよく働き、天皇と皇后を支えました。高市皇子に限っては「吉野の盟約」はしっかりと守られたといえます。

藤原不比等(菊池容斎画)
藤原不比等(菊池容斎画)

さらに持統天皇を支える大きな存在となったのが藤原不比等(ふじわらのふひと)です。天智天皇の重臣だった藤原鎌足の次男で、草壁皇子に仕えていたときに能力が認められ、珂瑠皇子の後見人としての役割も託されています。天智天皇の娘である持統天皇としては、父の参謀役の子孫ということもあり、高い信頼を置くようになりました。中国の法や文書に精通していた不比等は、やがて持統天皇が推進する国家事業の中心的人物となります。

現在の伊勢神宮
現在の伊勢神宮

持統天皇より前の女帝、推古天皇や皇極天皇(斉明天皇)は次の天皇が決まるまでのつなぎ役として、時の実力者に委譲された天皇でしたが、持統天皇は自らの意志で即位した天皇です。自らが最高権力者であり、自らが国を守らなくてはなりません。
そこで行ったのが儀礼の強化でした。天皇を神とし、民の心をまとめることが国家安定の基盤になるという、現在の日本の起源といえるような国のかたちを決めたのです。三種の神器を用いた即位の儀礼によって、天皇は神に選ばれた天子であると表明し、新しい皇位継承のかたちをつくりました。「日本」という国号や「天皇」という称号は持統天皇が確立させました。藤原京の建設、伊勢神宮の整備、日本書紀や万葉集の編纂など、多くの事業が持統天皇の治世においてほぼ成し遂げられました。

ドイツのメルケル首相、デンマークのメッテ・フレデリクセン首相、ノルウェーのエルナ・ソルベルグ首相、フィンランドのサンナ・マリン首相、エストニアのカーヤ・カラス首相、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相、台湾の蔡英文総統など世界の各地で女性リーダーの活躍を目にします。そうした姿を見るにつけ、日本は遅れていると思ってしまいがちですが、1300年以上前に持統天皇のような女性がいたことを考えると、かつては進んでいたところもあったように思われます。

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LinkedIn(リンクトイン)ジャパンが2020年9月に日本女性を対象に行った調査では、「もし自身が男性だったら、今よりもキャリアの立ち位置は良かったと思うか?」という質問に対し、43%もの女性がそう考えていると回答しています。ちょっと深読みすると、43%の人が何らかの制約のせいで、本来の自分の能力がちゃんと活かせていないとも受け取れます。持統天皇のような能力を発揮するのはむずかしいかもしれませんが、もし日本の女性たちが自分の才能を十分に活かせる環境が整えば、日本のポテンシャルは極めて高く、日本の国のかたちはガラリと変わるのではないでしょうか。

持統天皇から学ぶこと

自分の能力を認めてくれる人に出会うべし。

同じビジョンを共有できる仲間がいると強い。

どんな困難に直面しても折れない心が大切。

前例のないことも自分で切り拓く気概をもつ。

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