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逆境に立ち向かった大坂城の主

淀殿

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徳川家康に最後まで抵抗したのは太閤の妻だった...。浅井三姉妹の長女として妹たちを守り、親の敵である豊臣秀吉の妻となり、世継ぎの秀頼を産んだ淀殿。なぜ彼女が「豊臣家を滅ぼした悪女」の汚名を着せられたのか。豊臣から徳川への政権交代劇に潜む、ジェンダー問題について考えます。

期せずして豊臣家の経営を担う

帝国データバンクによると、日本における社長の女性比率は8%(2020年4月末時点)で、世界の水準からすると、まだまだ少ないのが現状です。女性社長の継承理由は夫や父など身内からの事業承継が51%で、自分が社長になることを予期していなかった人がほとんどのようです。
男性は小さい頃から周りに期待されて後継者となることを自覚するものの、女性は自分が後を継ぐことを想定しておらず、親の死などで突然バトンを渡され、戸惑ってしまう人が多いのではないでしょうか。
経営者となる備えが不十分で、相談相手もなく孤独になりがちな女性社長は多く、最近ではそうした女性たちを支援するネットワークが生まれるなど、サポート環境がわずかながら整いはじめています。

伝淀殿画像(奈良県立美術館所蔵)
狩野光信筆 豊臣秀吉像(高台寺蔵)
上:伝淀殿画像(奈良県立美術館所蔵)
下:狩野光信筆 豊臣秀吉像(高台寺蔵)

時代もスケールもまったく違いますが、自分の意に反して大組織を経営する重荷を背負ってしまった女性がいます。それが淀殿です。豊臣秀吉の妻となり、秀吉の死後、子の秀頼の後見役として政局に関わるうちに、いつのまにか豊臣家の命運を左右する存在になってしまったのです。
秀吉は臨終の間際に「秀頼のことをくれぐれも頼む」と、主要な家臣である五大老に忠誠を誓わせ、豊臣家の行く末を託しました。五大老とは、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家らの有力大名たちです。ところが秀吉の死後まもなく、秀吉の盟友で、秀頼を見守る傳役(ふやく/もりやく)だった前田利家が世を去り、徳川家康が専横的な振る舞いをするようになります。そして関ヶ原の戦いが起こり、東軍の徳川家康と西軍の毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が対立することで五大老体制は消え去り、家康の天下がはじまります。秀吉の構想した事業承継プランはまったく機能しなかったといえるでしょう。

現代のビジネスに置き換えて淀殿の視点で見ると、このような図式になります。
後継者が成人になるまで後見役をまかせていた重役が死去。
最も力のある重役が権力を掌握し、事前の断りもなく別会社を設立。
優秀なスタッフを引き抜いて勢力圏を拡大し、本社をしのぐ力をつける。
わが子はまだ幼く、このままでは後継者の座を奪われてしまう。

絹本着色高台院像(高台寺所蔵)
絹本着色高台院像(高台寺所蔵)
※高台院:北政所のこと

こうした危機感をもって、やむにやまれず豊臣家の経営に携わるようになったのが実状です。豊臣家に仕えていた有力な大名は関ヶ原の戦い以後、多くが徳川につき、豊臣家を支える人材が手薄になってしまったのも淀殿の不安をかきたてました。秀吉にはおねの名で知られる北政所(きたのまんどころ)という正室がありましたが、秀吉の死後は大坂城を去り、尼となり豊臣家の供養に専念します。北政所は長年、秀吉と苦労を重ねてきた共同経営者のような存在であり、マネジメント力やコミュニケーション力が高く、秀吉が遠征中は家のことを巧みに取り仕切り、家臣からの信頼も厚い人でした。人柄の良さから織田信長や徳川家康からも一目置かれる存在であり、彼女が豊臣家を率いればうまくまとまったのではないかと考える人もいます。
歴史学者の田端泰子氏によると、淀殿が子を授かったせいで、秀吉の後家としての役割は淀殿と北政所で二分されたといいます。後継者が幼少の場合、北条政子や日野富子のように後家と後継者が共同で、もしくは後家自身が執政しつつ夫の菩提を弔うのが一般的ですが、豊臣家の場合は淀殿が執政、北政所が弔いと役割を分担したのです。そのため豊臣家の結束力が弱まってしまったのではないか、という見方もあります。

凄絶な人生を歩んだ浅井三姉妹の長女

三姉妹像(北ノ庄城趾(柴田神社)蔵)
三姉妹像
(北ノ庄城趾(柴田神社)蔵)

淀殿は「戦国一の美女」とうたわれた織田信長の妹、お市の方と北近江の戦国大名、浅井長政(あざいながまさ)の間に生まれた浅井三姉妹(あざいさんしまい)の長女です。淀殿はしばらくの間、淀城に居たことからついた当時の通称で、手紙のやりとりでは幼名の茶々(ちゃちゃ)をそのまま名乗っていました。明治になるまで日本の武家は夫婦別姓だったので、北条政子などと同じように、本来は浅井茶々と呼ぶべきではないか、と考える人もいます。

淀殿は北条政子、日野富子とともに日本三大悪女の一人といわれてきました。政子や富子が必ずしも悪女でなかったように、淀殿もまた後世の人たちによって作為的に悪女にされた人といえます。現代では淀殿の人物像を見直す動きがあり、NHKの大河ドラマを例に見ても、ここ最近で淀殿を演じたのは深田恭子(天地人)、宮沢りえ(江~姫たちの戦国~)、二階堂ふみ(軍師官兵衛)、竹内結子(真田丸)と、悪女のイメージはなく、苛酷な運命に立ち向かう悲劇のヒロインとして描かれているようです。

「絵本太閤記5巻」より浅井長政最期(国立国会図書館蔵)
「絵本太閤記5巻」より浅井長政最期
(国立国会図書館蔵)

すでに広く知られている淀殿の生涯ですが、あらためて簡単に振り返ってみましょう。
お市の方と浅井長政との間に生まれた浅井三姉妹は、長女が淀殿、次女が初(はつ)、三女が江(ごう)です。浅井長政は織田信長を裏切り、朝倉義景と手を組み敵対し、小谷城の戦いで滅ぼされます。このとき浅井氏が籠城する小谷城を攻めたのが木下藤吉郎(豊臣秀吉)でした。長政は自刃しますが、お市の方と三姉妹は信長の指示で救出されます。1573年、淀殿が5歳のときでした。

柴田勝家像(個人蔵)
柴田勝家像(個人蔵)

その後、お市の方と三姉妹は信長の弟である織田信包(のぶかね)のもとで保護され、しばらくは平穏な日々を過ごします。しかし1582年、本能寺の変で信長が非業の死を遂げると状況は一変。お市の方は、信長の有力な家臣だった柴田勝家と再婚し、三姉妹も勝家のもとに身を寄せます。まもなく勝家は急速に力をつけた羽柴(豊臣)秀吉と対立し、1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破れ、北ノ庄城の戦いで滅ぼされます。お市の方は勝家とともに自害しますが、三姉妹は秀吉に保護されました。淀殿13歳、初11歳、江9歳。三姉妹は秀吉のもとで暮らすようになります。

浅井三姉妹にとって秀吉は、母のお市、父の浅井長政、柴田勝家を死に追いやった親の敵であり、憎しみを抱いて当然の相手ですが、長女の淀殿としては幼い妹たちを守らなければならないという思いが強く、やむなく秀吉の世話になったと伝えられます。長じて次女の初は大名の京極高次の正室に、三女の江は二度の結婚を経たあと、徳川幕府の第2代将軍、徳川秀忠の正室となります。そして自らは秀吉の妻となり、妻たちの間で唯一子を授かります。最初の子である鶴松が3歳で夭折、2番目の子、秀頼が生まれたとき秀吉は57歳、淀殿は25歳。その5年後、秀吉は亡くなります。

淀殿は実質的に大坂城の主となり、幼い秀頼を豊臣家の後継者として育てますが、次の天下人となった徳川家康にじわじわと追い詰められます。そして1615年、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。淀殿は秀頼とともに自害し、炎上する大坂城のなかでこの世を去ります。
幾多の悲劇が展開された戦国時代、織豊時代のなかでも、三英傑、信長、秀吉、家康のすべてに深く関わり、三度も落城を経験した淀殿の人生は、ひときわドラマチックなものでした。

新しい視点で見直したい淀殿の実像

福田千鶴著「淀殿-われ太閤の妻となりて-」(ミネルヴァ書房)
福田千鶴著
「淀殿-われ太閤の妻と
なりて-」
(ミネルヴァ書房)

日本の歴史において、淀殿ほど不当な評価をされている女性はいない。そう考える人は少なくありません。歴史学者の福田千鶴氏は「淀殿―われ太閤の妻となりて―」(ミネルヴァ書房)という著作の中で、一次資料に基づき先入観にとらわれない、より正確な淀殿の姿を浮かび上がらせています。
大きな見直しのひとつは側室に対する見方です。正室の北政所に対して、後世の人たちは淀殿を「側室=愛妾」のような見方をしますが、一夫一妻制が定着したのは江戸時代に制定された武家諸法度(ぶけしょはっと)からであり、豊臣秀吉は一夫多妻多妾でした。そもそも淀殿が生きた時代には「側室」という言葉はなく、秀吉には少なくとも5人の妻がいたとされます。北政所、淀殿、松ノ丸殿(京極龍子(たつこ)/京極高次の妹)、三の丸殿(織田信長の娘)、加賀殿(摩阿姫/前田利家の娘)で、北政所を頂点とした序列はあったものの、側室という区別はありませんでした。淀殿だけが秀吉の子を宿したために、北政所に次ぐ存在となったのです。淀殿が生んだ子は秀吉の実の子ではない、といった話もまことしやかに囁かれてきましたが、現在のところ確固たる証拠はありません。

「絵本太閤記15巻」より淀殿が蛇の化身として表現されているシーン(国立国会図書館蔵)
「絵本太閤記15巻」
より淀殿が蛇の化身として
表現されているシーン(国立国会図書館蔵)

淀殿には徳川に対して勝ち目のない抵抗を続け、「豊臣家を滅亡に導いた悪女」というステレオタイプな評価がついてまわりますが、これは意図的につくりあげられたイメージから発しています。豊臣家を滅ぼした徳川家としては政権交代の正当性を強調するために、そして、豊臣恩顧の大名たちとしては豊臣家を見限り、徳川についた妥当性を得るために、都合のいいスケープゴートを必要としたと考えられています。江戸時代の『絵本太閤記』という読本(よみほん)では淀殿が蛇の化身として描かれるなど、極端に脚色されたフィクションが世に出回ったことも、悪女説を増幅させる原因となりました。

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豊臣家の滅亡の原因は、徳川家康の周到にして老練な策略にあることは明らかで、時代の流れからしても徳川への政権交代を止めることはできなかったと考えられています。
「戦や政治に不慣れな女性にまかせるから、豊臣家が滅亡したのだ」「おとなしく家康に屈していれば豊臣家が滅びることはなかったのに」といった女性差別的な論調が江戸時代に形成され、その残りともいうべき先入観が現代まで引き継がれてきました。最近、要人の発言で議論を呼んだ「女性はわきまえるべき」といった考え方にも、どこか共通点があり、日本におけるジェンダー格差の根の深さを感じさせます。

熾烈な権力争いのために、親を失い、姉妹の仲を裂かれ、親の敵である男の妻となった。さらに夫の死後、家臣に優秀な人間がいなくなり、後継者となるべきわが子の将来を自分で守るしかなかった。そんな淀殿に豊臣家滅亡の責任を転嫁するのは「溺れる犬を棒で叩く」ようなもので、男性優位の史観による時空を超えたハラスメントのようにも思えます。

なぜ淀殿は戦いをやめなかったのか

養源院(養源院公式サイトより)
養源院(養源院公式サイトより)

淀殿は豊臣秀吉が生きていた頃に、お市の方と浅井長政の供養をしたいと願い出て京都に養源院を建立するなど、先祖の弔いや信仰を大切にしていました。浅井長政といえば秀吉にとって敵であり、その供養を認めることは当時としては例のない寛大さでした。それだけ淀殿の親を思う気持ちが切実に伝わったのでしょう。
そうした信心深い淀殿の人柄を知っていた徳川家康は、神社や寺院の造営や修復を盛んに勧め、潤沢な蓄財を使わせることで豊臣家の弱体化を狙ったともいわれていますが、真偽のほどは定かではありません。
豊臣秀頼の名義で1599年から1614年の間に、80以上の寺社が造営されましたが、現在そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。名義は秀頼ですが、発願(ほつがん)の多くは母の淀殿だったであろうと考えられています。豊臣家の存続では思うような成果を出せなかった淀殿ですが、文化芸術の領域では多くの遺産を残したということができます。

方広寺の「釣鐘」(赤丸の部分が「国家安泰」「君臣豊楽」の部分)
方広寺の「釣鐘」
(赤丸の部分が「国家安泰」「君臣豊楽」の部分)

皮肉なことに、豊臣家滅亡のきっかけとなったのも、寺院の造営に関わるものでした。かの有名な「方広寺鐘銘(しょうめい)事件」です。奉納した鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の句があり、家康の「家」と「康」を分断し、なおかつ豊臣を君主のように扱っている、と家康が文句をつけたのです。この事件が大坂冬の陣が起こるきっかけとなります。家康の仕掛けた巧妙な罠とする説が主流ですが、こんな突っ込みどころの多い銘文を記した豊臣家にも問題があると考える人もいます。方広寺の建立では悲惨な結末を招いてしまいましたが、多くの神社や寺院を造営することで、世の中の役に立ちたいという強い願いが淀殿にあったことは間違いないでしょう。

最近アメリカではある女性たちの動きが注目を集めています。大手IT企業創設者のパートナーだった女性たちによる社会活動です。マイクロソフト創業者であるビル・ゲイツ氏の元夫人で、2021年に離婚したメリンダ・フレンチ・ゲイツ氏。アマゾン・ドット・コム創業者、ジェフ・ベゾス氏の元夫人で2019年に離婚したマッケンジー・スコット氏。アップル創業者スティーブ・ジョブズ氏と10年前に死別したローレン・パウエル・ジョブズ氏。
こうした女性たちが豊かな財力を活かし、ジェンダー、気候変動、教育問題などの社会問題に取り組んでいます。ただ単に寄付をするのではなく、支援する先を自分で選び、資金を提供するのが特徴で、新たなソーシャルインパクトとなっています。経済力のある女性の社会的な影響力が、世の中を変える大きなうねりとなる。そんな潜在力を秘めた動きといえます。

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時代も文化も違うものの、淀殿がやろうとしたことは、そうした社会活動に通じるものがあったのかもしれません。大坂の陣では自ら鎧をまとい、陣中を激励したと伝えられますが、勇ましい立ち振る舞いは本来の彼女の姿ではなく、真の姿は強く平穏な世の中を希求した人であったと考えられています。秀吉の死後は家康を信頼し、うまく協調してやっていこうと考えていた淀殿ですが、秀吉からあれほど秀頼を頼むといわれていた家康が手のひらを返したように豊臣家を潰しにかかってくる。秀吉にひれ伏していた男たちが、次々と目の前からいなくなっていく。淀殿の戦いはそうした人道を外れた戦乱の世に対する最後の抵抗だったのかもしれません。勝ち目がないとわかっていながらも、妹の初や江が徳川と和解するよう説得したにも関わらず、なぜ淀殿は頑として戦いをやめなかったのか。この不屈の心をもった女性の内面を想像してみることは、現代のジェンダー格差を考えるうえで、新しい視座を与えてくれるように思えます。

淀殿から学ぶこと

責任感を強く持って最後までやり遂げる。

逆境でもめげない心が実を結ぶ。

先入観がジェンダー格差を助長する。

報われなくても信念を貫くことが大事。

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