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徳川の乳母から政権の重鎮に

春日局

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徳川政権に安定をもたらしたのは将軍の乳母だった...。本能寺で織田信長を討った明智光秀の重臣、斎藤利三の娘として苦難を重ねた春日局。3代将軍・徳川家光の乳母となり、大奥の基礎をつくるなど徳川政権で重きを成した彼女のキャリアを追いながら、男女格差に横たわる課題を掘り下げます。

徳川政権の基盤を固めた女性リーダー

環境や社会課題、企業統治への配慮を評価する「ESG投資」がますます世界のスタンダードになっています。ひところは環境への対応が注目されていましたが、最近ではジェンダー格差が解消されているかどうかにも投資家の厳しい目が向けられているようです。外資系の投資家たちは「女性の取締役ゼロ」の企業に対しては、指名委員会や経営トップ選任に反対票を投じるようになりました。そうした動きを受けて、女性を登用していない企業では、競って女性取締役を採用する動きに出ています。ここ数年で女性取締役は倍増していますが、ほとんどが社外取締役であり、社内から選抜するケースはまだまだ少ないようです。「外圧」によって変わったように見えても、本質的なところでは積極的に女性を登用するマインドになっていないのが現状のように思われます。
女性登用を阻む要因としては、優秀な女性によって男性側の「重要な仕事やポストを奪われる」、「自分の存在価値がなくなる」という無意識の警戒も大きいといわれます。そうした目に見えないバリアを一気に突き崩す、思い切った転換がすぐにでも必要といえるでしょう。

安達吟光画「古今名婦鏡 春日局」
徳川家光像(金山寺蔵)
上:安達吟光画「古今名婦鏡 春日局」
下:徳川家光像(金山寺蔵)

日本の歴史を振り返ると、男性優位の社会に大きな風穴をあけた女性たちが少なからずいました。なかでも春日局は特異な存在です。春日局とは51歳のときに天皇から授かった称号で、その本名を福といいます。
福は徳川三代将軍、家光の乳母であり、本来は黒子の存在でした。しかし、家光を将軍に育て上げたのち、自らは御台所(みだいどころ)に相当する要職につき、老中を上回る権力を手にします。鎌倉時代の北条政子、室町時代の日野富子も大きな影響力をもった存在でしたが、彼女らはいずれも将軍の妻であり、政治に参画しやすい立場にありました。
春日局の場合は、将軍の乳母という直接は権力をもたない立場から、自らの才覚と行動力でステップアップし、着実にキャリアを重ねてきた点でユニークといえます。
江戸時代以降の男性優位社会の価値観では、北条政子、日野富子、淀殿のような男性を脅かすような力をもった女性は悪女のレッテルを貼られることが多いのですが、春日局の場合、一部の「乳母が国家の大事に口を出すとはいかがなものか」というような見方をする人以外は、悪女のようなイメージはあまりないようです。

よしながふみ著『大奥』(白泉社)
よしながふみ著『大奥』
(白泉社)

男女が逆転した大奥の世界を描いた、よしながふみ氏の漫画『大奥』が2021年2月に完結しましたが、そのパラレルワールド的な世界は第一級のエンタテイメントでありながら、日本の男女格差についてさまざまな問題を投げかける作品でした。ここに登場する春日局はちょっと怖い存在でしたが、実際にはどんな人物だったのでしょう。まずは春日局の人生をたどってみたいと思います。

本能寺で信長を討った謀反人の娘

落合芳幾画「太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三」
落合芳幾画
「太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三」

日本の歴史では、政争によって滅ぼされた武将の子孫がのちに名を残す例が稀にあります。織田信長の妹、お市の方の娘である淀殿をはじめとした浅井三姉妹(あざいさんしまい)はその代表ともいえるケースです。
春日局もそうした悲劇に遭遇しながらも、しぶとく生きながらえた女性のひとりです。フルネームは斎藤福といい、明智光秀の重臣だった斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘です。斎藤利三は織田信長を死に追いやった本能寺の変で主導的な役割を果たした武将で、山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、磔(はりつけ)にして処刑されます。その武勇は広く知られ、秀吉をして「殺すには惜しい人物」と言わしめたと伝えられます。

稲葉正成肖像(神奈川県立歴史博物館蔵)
稲葉正成肖像
(神奈川県立歴史博物館蔵)

父の悲劇的な死の後、福は母方の実家である美濃の稲葉家に身を寄せ、伯父の稲葉重道(いなばしげみち)の養子として引き取られます。そして、20歳のとき小早川秀秋の家臣であった稲葉正成(いなばまさなり)の妻となります。小早川秀秋といえば、関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の武将でありながら徳川に寝返った人です。稲葉正成は徳川家康と内通し、主君の秀秋を徳川につくように説得した功労者でした。本能寺の変、関ケ原の戦いという、日本を大きく変えた歴史のターニングポイントで重大な役割を果たしたキーパーソンの子であり妻であった福。そこには何か運命的なものを感じざるを得ません。その後、福は稲葉正成と離縁したのちに、竹千代すなわち徳川家光の乳母となります。
乳母となった経緯としては諸説ありますが、17世紀後半に出版された『明良洪庵』という書物では、家光が誕生した際に京都で乳母の募集があり応募したとされています。ほぼ同時期に出版された『春日局譜略』では福を乳母に採用したのは民部卿局(みんぶきょうのつぼね)だったといいます。民部卿局とは江についた奥女中の最高位だった老女で、選考にあたっては徳川将軍家の意向が強く働いたと考えられます。福の家柄や教養、夫だった稲葉正成の功績が高く評価されたという説がありますが定かではありません。

福は徳川家光の乳母ではなく生母だったという説を唱える人もいます。歴史学者の福田千鶴氏もそのひとりで、一次資料をひもときながら緻密な検証を加えています。徳川秀忠と江の間には11人の子がいて、すべての子を江が産んだとは考えにくい、秀忠と江は家光の弟の国松(のちの徳川忠長)を世継ぎに考えていたなど、その論拠はいくつかあり、徳川将軍家の蔵書を保管する紅葉山文庫の『松のさかえ』にはこう記されています。

秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局
三世将軍家光公也、左大臣

同御二男 国松君 御腹 御台所
駿河大納言忠長公也、従二位

映画「女帝 春日局」DVD発売中 3,080円(税込)販売:東映 発売:東映ビデオ
映画「女帝 春日局」DVD発売中 3,080円(税込)
販売:東映 発売:東映ビデオ

家光の生母が春日局に対して、弟の忠長が御台所、すなわち江であることが明記されています。「春日局生母説」の真偽を探ることが目的ではないので深追いはしませんが、江戸時代から家光の生母は春日局とする記録があったことがわかります。ただ、意外なことに徳川の正室から生まれた子が将軍になったのは家光だけであり、以後の歴代将軍はすべて側室の子か養子でした。もし家光が江の子でなかったとしても、当時の人たちにとってはさほど驚くことではなかったのかもしれません。
さらに、家光は家康と春日局の子であると唱える人もいて、1990年の映画『女帝 春日局』ではその説を題材にした物語が展開されています。

徳川家康に認められた高い政治能力

徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
駿府城(駿府城公園)
上:徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
下:駿府城(駿府城公園)

徳川家康と同じ竹千代の幼名を与えられた家光は、苦難を乗り越え将軍として認められた人です。徳川秀忠には長丸(ちょうまる)という男子がいましたが早世し、以後なかなか男子が生まれませんでした。家光はやっと授かった男子でしたが、2年後、弟の忠長が生まれます。容姿端麗で利発、人見知りもなく外交的な忠長の成長を見るにつけ、秀忠と江は家光よりも忠長のほうが世継ぎに向いているのではないか、と考えはじめます。もともと繊細なところがある家光は、自分が疎まれていると悩み、自殺未遂をします。
事態を深刻に受け止めた福は、なんとしても家光を将軍にしなくてはという思いで徳川家康に会いに行きます。伊勢参りに行くという口実をつくり、家康の隠居する駿河城をひそかに訪れたのです。家光の乳母とはいえ、最高権力者である家康に面会することは至難の技でした。しかし、福には気脈を通じた女性たちとのネットワークがあり、当時の家康が溺愛していた六局(ろくのつぼね)という側室を通じて面会にこぎつけ、家康に直談判したのです。
「世継ぎには長幼の序があり、兄弟のうち兄が家督を継ぐのが世の習いである。これが乱れると争いごとが起こる」と彼女は述べ、家光を世継ぎとして認めてもらうことを懇願。この願いが聞き届けられ、江戸城に赴いた家康が秀忠や江、家臣たちの前で、家光が第3代将軍であることを宣言するのです。福の緻密な企画力と大胆な行動力がうかがえるエピソードですが、何よりも家光を案じる福の強い気持ちが、家康の心を動かしたのかもしれません。

雲光院(阿茶局)像(徳川記念財団蔵)
雲光院(阿茶局)像
(徳川記念財団蔵)

家康は初めから福の能力を高く評価していました。「あの斎藤利三の娘なら、世継ぎをしっかり育ててくれるだろう」と乳母の人選に自ら関与したともいわれます。
家康は政治の舞台に積極的に女性を登用する人でした。その代表的な例が阿茶局(あちゃのつぼね)です。馬術や武術に優れていた阿茶局は戦場にも同行し、大坂の陣では淀殿に対して和睦交渉をするなど重要な役割を果たします。そうした前例もあり、春日局に対しても、徳川の戦力となる人物として大きな期待を寄せていたのではと考えられます。
ちなみに阿茶局は徳川秀忠の実母である西郷局(さいごうのつぼね)が亡くなってからは「母代」として秀忠の母がわりとなり、秀忠の五女・和子(まさこ)を後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の女御(にょうご)として嫁がせます。和子はやがて中宮となり、阿茶局は皇后の義母に相当する位階、臣下の女性としては最高位である従一位(じゅいちい)を授かりました。
徳川の天下になり、次第に女性の活動が制限されていくなかで、才能のある者が抜擢される流動性の高い人財のマーケットが家康の時代にはまだ残されていたといえます。

老中を超える権力を手にした春日局

家光が成長すると、乳母としての役割は減る反面、新たな役目を担うことになります。それが「大奥総取締(おおおくそうとりしまり)」という公務です。本来は秀忠の正室である江が果たす役割ですが、1626年に江はこの世を去ります。そのあとを継ぐ家光の正室、公家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)には輿入れしてきたばかりのため荷が重く、福がその役目を担うことになりました。大奥総取締という職名はもちろん、大奥という言葉すらまだない時代で、福はさまざまな制度を設け、のちの大奥に発展する土台を築き上げました。

柳生宗矩 木像(芳徳寺蔵)
柳生宗矩 木像(芳徳寺蔵)

また、天皇家に対する幕府側の交渉役となりますが、無位無冠の身で拝謁したことから、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)から従三位(じゅさんみ)の位階と「春日局」の名を拝領します。1629年、福が51歳のときでした。その後も幕府と朝廷の仲介役として何度も京を訪れ、1631年には従二位(じゅにい)に昇叙します。さらに幕府の老女として、各種行事の参加、諸大名との交流、将軍への取り次ぎなどを行います。男子禁制の大奥ではそうした政務を行えないため、城外に4つの屋敷を所有していました。知恵伊豆と呼ばれた老中の松平信綱、兵法指南役の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とともに、福は家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられています。

1643年、春日局は65歳で世を去ります。多くの手紙や書状が残され、その文面から家臣に勤め先を世話したり、贈り物の算段をしたり、細やかな心づかいを大切にしていたこまめで誠実な人柄が偲ばれます。権力を手にすると人が変わったように横暴な性格をむき出しにする人がいますが、春日局はそうしたタイプではなく、書面を読むほどに、幕府や大名の男たちと堂々と渡り合い、大奥の奥方や側室、女中たちのもめごとをあざやかにさばいていく、有能なキャリア女性としての姿が浮かび上がってくるといいます。

周延画「千代田之大奥 歌合 橋本」
周延画「千代田之大奥 歌合 橋本」

しかし、あまりにも権勢が強大だったがゆえに、春日局の死後は女性の政治参画を快く思わない人たちの封じ手にあいます。将軍と深くつながった乳母が政治に介入するのを防ぐため、将軍家の乳母が覆面をして授乳する風習が見られたといいます。ポスト春日局のような女性が継続して現れたら、日本を変えるゲームチェンジャーになり得たのですが、以後、江戸時代にはそうした女性が現れることはありませんでした。
幕府の予算の4分の1が費やされた大奥は、最盛期には奥女中2千人を超える世界に類を見ない女の城となりましたが、この大奥の礎を築いた女性こそ春日局。男女を完全に分断してしまう施策が、女性の役割や可能性を固定化してしまったのは皮肉な現象です。

クオータ制

政治の分野での男女の格差を是正するために、女性に一定比率の議席や候補者を割り当てる「クオータ制」は、世界全体で129の国と地域が導入しています。先進国だけのものと思っていたこの制度がいつの間にかこんなにも普及していることに驚かされる人も多いでしょう。南米、アフリカ、中東諸国の多くが含まれますが、こうした国は1980年代以降に民主化した国であり、新しい国をつくるグランドデザインにジェンダー平等が組み込まれているため、クオータ制が導入しやすかったとされます。銀行のなかった国がいきなりキャッシュレス社会になるのと同じような現象が起きているのです。逆に日本は歴史があるがゆえに、いろいろな制度やシステムが古くなっているのに変えにくくなっているといえます。ジェンダー問題に限らず日本の課題は、やらなくちゃと思っているのになかなか変革が進まないこと。もし表舞台に出る機会を失っていた大奥のようなパワーを30%、硬直した男性優位社会に投入することができたら、日本はもっと柔軟で活力のある国に変わるのではないかと思います。

春日局から学ぶこと

逆境に打ち克つ強い精神力をもつ。

大切なものを守り抜く熱い心をもつ。

危機は人脈と行動力で切り抜ける。

権力は世の中をよくするために使う。

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