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【挑む人】第13回 三代目金龍「五月の空を舞い泳ぐ色鮮やかな鯉たち」

かつて、日本中の五月の空を悠々と舞い泳いでいた鯉のぼり。近年は住宅事情などによって掲げる家庭は減少しているが、鯉のぼりの文化は今も絶えず続いている。ナイロン布に型染めで彩色する鯉のぼりが主流の現代にあって、伝統的な手描きの鯉のぼりを手がけているのが20代の若き女性職人、三代目金龍氏である。彼女の鯉のぼりにかける思いを探る。

※本記事は2020年5月に掲載されたものです

武家と町人の合作として生まれた文化

三代目金龍(さんだいめ・きんりゅう)プロフィール

江戸手描き鯉のぼり職人
1992年、東京都江戸川区生まれ。幼少より家業である秀光人形工房で雛人形や鯉のぼりに触れて育つ。2010年、アート団体「愉嗚呼社(ゆああしゃ)」を結成。女子美術大学卒業後、数年の修業期間を経て、18年「三代目金龍」を襲名する。

鯉のぼりを掲げる風習は、江戸期の武家と町人のいわば合作として生まれたものであった。湿気が多くなる五月に、菖蒲の葉や根を酒に浸した菖蒲酒を飲んで毒気を払うという風習は奈良時代に中国から伝わったもので、江戸時代になって、菖蒲が「尚武(しょうぶ)(武を(たっと)ぶ)」や「勝負」に通じることから男子の節句となり、武家では家紋を入れた旗指物や吹き流しを掲げるようになった。

それをまねたのが、富裕な町人層だった。彼らは和紙で鯉をかたどった幟を吹き流しとともに高く掲げた。当時は鯉のぼりづくりの職人がいたわけではなく、絵の達者な町人が鯉のぼりづくりを担ったようだ。紙製だから長持ちはしない。毎年の鯉のぼりの新調もまた恒例の行事だったのだろう。鯉のぼりは後に、家の跡継ぎとなる男子が生まれたことを地域に示す意味も持つようになった。

鱗模様を丁寧に描きこんでいく。彩色は淡い色から濃い色に進んでいくのが基本だ。金の彩色は最後になる
鱗模様を丁寧に描きこんでいく。彩色は淡い色から濃い色に進んでいくのが基本だ。金の彩色は最後になる

幟に鯉をあしらったのは、中国の故事にちなんだものだ。黄河中流にある竜門と呼ばれる滝を鯉が力強く登って、登り切ると龍に変じたというのがその故事で、功成り名を遂げ成功するための関門を「登竜門」と呼ぶのはこの物語による。町人たちは鯉に男子の立身出世の願いを込めたのだった。

百瀬(ももせ)の滝を登りなば
忽ち龍になりぬべき
わが身に似よや男子(おのこご)と
空に躍るや鯉のぼり

大正初期に当時の尋常小学校の唱歌となった「鯉のぼり」には、こんな歌詞も見える。

縫製を丹念に行うのも秀光人形工房の鯉のぼりづくりの流儀だ。手縫いとミシン縫いを組み合わせながら強度を出す。「縫製はどこにも負けない」と三代目は話す
縫製を丹念に行うのも秀光人形工房の鯉のぼりづくりの流儀だ。手縫いとミシン縫いを組み合わせながら強度を出す。「縫製はどこにも負けない」と三代目は話す

その登竜門の故事を吹き流しに最初に描いたのが、江戸手描き鯉のぼり職人の初代川尻金龍だったという。呉服職人であった初代金龍は、元来の絵画の才能を活かして、力強く跳ね泳ぐ鯉とうねるように舞う龍をあしらった吹き流しと、鮮やかな彩色の鯉のぼりをつくった。その作品は昭和の世にあって大ヒット商品となり、男子を持つ家庭の多くが買い求めた。五月に鯉のぼりを掲げる風習がしっかりと残っていた時代の話である。

初代金龍の作品は手描きによるものだったが、当時から「捺染(なっせん)(型染め)」による大量生産の鯉のぼりづくりもあって、二代目金龍の時代になってからはすべてが捺染によってつくられるようになった。ナイロン布にパターン模様が描かれた私たちがよく知る鯉のぼりである。

そうして江戸手描き鯉のぼりはいっとき途絶えることとなった。それを復活させたのが三代目金龍氏である。実に35年ぶりのことであった。

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