自分からにじみ出る命が彫刻の命となる
![]() ミニチュアの彫刻では、はしもと氏の独自のイメージが表現されることが多い
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子どもの頃から動物が好きで、動物園の飼育員か獣医師になるのが夢だった。人生の転機となったのは、1995年の阪神・淡路大震災だった。
「あの地震の後、近所の犬や猫がみんないなくなってしまって、生きているのか、死んでしまったのかも分かりませんでした。もしかしたら、みんな死んでしまったのかもしれない。命が突然失われることもあるんだ。一度失われてしまった命はもう元には戻せないんだ──。そんなことを考えました」
動物に関わる仕事がしたいという夢と、命が一瞬で失われてしまうという体験が結びついて、動物の命を長く残していく仕事がしたいと考えるようになった。命を形として残していく仕事。それが彼女にとっての彫刻だった。
![]() 上/はしもと氏が描いた猫のスケッチ。デッサンに打ち込むことで画力を磨いたという
下/アトリエのあらゆるところに動物の存在があふれている |
「美術の勉強を始めたのは高校2年生の冬でした。それまでは理数系だったので、美大に行きたいと言ったら先生はびっくりしていましたね(笑)。結局、3年間浪人しても行きたかった大学には入れなかったのですが、高2から浪人の間の4年ちょっとの時間は、今思えば私にとってとても大事な時間でした。その時期に動物のデッサンに徹底的に取り組んだことが今に生きているからです」
浪人時代に木彫りの勉強をしたわけではないが、大学に入って彫刻を始めると、すぐに立体表現ができるようになったという。
「2次元の絵のタッチとまったく同じ3次元の彫刻をすぐにつくれるようになりました。自分でも不思議でしたね。デッサンを訓練したおかげだと思います」
現在に至る道が開けたのは、大学の教師が飼っていた愛犬の彫刻をつくってからだ。出来上がった彫刻を教師は気に入って、買い取ってくれたという。「これを仕事にしたらどうかな。自分の大切な子の彫刻が欲しいという人は、たくさんいると思うよ」──。そんな言葉に背中を押され、大学時代から肖像彫刻づくりを請け負うようになった。
「柴犬の彫刻とか三毛猫の彫刻をつくってきた人はたくさんいます。でも、この世に1頭しかいない犬の個性を写し取って、その子の肖像をつくることを専門にしている彫刻家はいなかったし、今も私以外には多分いないと思います」
![]() 自身の肖像彫刻に向かい合う月くん(手前)。伏せているのは亡くなった先代の月くんだ。すべての彫刻が今にも動きだしそうな生命力にあふれている
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例えば、ある犬の写真を何枚も撮影して3Dデータを生成し、それをもとに3Dプリンターで立体をつくれば、その犬に「そっくり」の像はできるだろう。しかしその像が、生き生きとした命を宿すことは恐らくない。むしろ、子どもが粘土でつくった犬の姿の方が生命力を感じさせることもある。それが造形の不思議で面白いところだとはしもと氏は言う。
「動物って、静止していることがないんですよ。呼吸で胸が波打っていたり、舌を動かしていたり、震えていたりと、いつだって動いているんです。それを静止した立体像にするには、姿形をそっくり写し取るのではなく、その子の命のリズムのようなものを一度自分の中に取り込む必要があると思うんです。その命を自分からにじみ出させることで、彫刻の命を探し出す。そんなふうに考えています」
自分がつくった彫刻にはサインを入れないのが流儀だ。自分の命よりも彫刻の命の方がはるかに長い。彫刻が残された時、つくり手の存在は邪魔になる。そんなふうに考えるからだ。
「円空さんがつくった木彫りの仏様のように、全国のいろいろな土地に私が彫った犬や猫がいて、地元の人たちに愛され続けるのが理想です。そのためには、できるだけたくさんの彫刻をつくらなければならないと思っています。一年につくれるのはたったの10体くらいですから、これからどれくらいの彫刻をつくれるか分かりません。人生が終わるまでに、一つでも多くの彫刻をつくること。それが私の目標ですね」
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7年前に三重県の山間部にある知人の家を借りて、住居兼アトリエとしているはしもとみおさん。都会から離れることで、美術界の流行に惑わされることなく、自分が毎日接する風景や、愛犬との触れ合いだけを彫刻の糧とできるようになったと話します。アトリエでは、その愛犬・月くんが作業をするはしもとさんに寄り添ったり、自分の肖像彫刻の隣で横になったりして、取材陣を楽しませてくれました。この素敵な環境で、これからも素晴らしい彫刻を生み出していっていただきたいと思います。