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桜美林大学 リベラルアーツ学群 教授

山口 創

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人の幸福感や周囲の人々との信頼関係、さらには健康などに深く関わる物質として最近注目を集めているオキシトシン。「幸せホルモン」とも呼ばれるこの物質と皮膚の関係を探求しているのが山口創氏だ。人と人が「触れ合う」ことによって分泌される幸せホルモンのメカニズムや効用について、山口氏に聞いた。

※本記事は2021年11月に掲載されたものです

「幸福感」や「絆」に深く関係するホルモン

山口創(やまぐち・はじめ)プロフィール

桜美林大学リベラルアーツ学群教授。1967年静岡県生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程修了。専攻は健康心理学・身体心理学。「皮膚」「触れる」ことをテーマに、子育て、看護・介護、セラピストなど様々な人を対象に研究や講演活動を行っている。著書に『皮膚はいつもあなたを守ってる』(草思社)、『子供の「脳」は肌にある』(光文社)などがある。

※黒字= 山口創 氏

──最近、「オキシトシン=幸せホルモン」が注目されるようになっています。これがどのような物質なのか、あらためて教えていただけますか。

オキシトシンとは、もともとは出産前後の女性の子宮を収縮させる作用があることで知られていた物質で、現在でも陣痛促進剤として使われることがあります。この物質に別の作用があることが発見されたのが2000年のことです。オキシトシンが脳でつくられると、幸福感が高まったり、周囲の人への信頼感が高まったり、自律神経が安定するといった作用です。そこから、オキシトシンが「幸せホルモン」と呼ばれるようになりました。

──オキシトシンはどのようなメカニズムで分泌されるのですか。

最も分泌されやすいのは、人と人との肌の触れ合い、つまりスキンシップです。それ以外にも、利他的な行動をするとか、五感を刺激することなどによっても分泌されることが分かっています。美術館で美しいものを見る、好きな音楽を聴く、アロマの匂いを嗅ぐ、おいしいものを食べるといったことでもたらされる刺激ですね。

それから、例えば食事をする場合は、1人で食べる「孤食」よりも、家族や友人と一緒に食べる「共食」のほうがオキシトシンの分泌が促進されます。オキシトシンは哺乳類全般が分泌する物質ですが、特に人類は仲間をつくって助け合いながら生きてきた生き物です。共食も人類ならではの文化で、一方、チンパンジーは食料をどこかに持っていって、目につかないところで1人で食べたりします。

親子、夫婦、仲間がともに生活し、触れ合い、助け合うことによってオキシトシンが分泌され、絆がより深まる。それが人間に備わっているメカニズムです。ですからオキシトシンは、時に「絆ホルモン」と呼ばれたりもするわけです。

双方向の関係にある皮膚と心

頭・心・体の関係──ベースには体がある

身体心理学のイメージ図。「頭=知性」は感情に影響を受け、感情は「体」からもたらされる感覚に影響される。この感情と感覚を合わせたものが「心」である
身体心理学のイメージ図。「頭=知性」は感情に影響を受け、感情は「体」からもたらされる感覚に影響される。この感情と感覚を合わせたものが「心」である

──もともとは、心理学を専門に研究されていたそうですね。

心理学の中でも「身体心理学」というやや特殊な分野の研究をしていました。心理学は、「心と体は別」という西洋の心身二元論を基礎とした学問です。しかし、東洋では「心身一如」という仏教用語があるように、心と体は一つであるという考え方が伝統的にあります。心についての考察は、身体についての考察と分けることはできない。心を整えようと思ったら、身体も整えなければならない──。そのような東洋的な考え方に基づくのが身体心理学です。

その中でも、特に興味があったのが対人関係でした。身体心理学の文脈で対人関係を考えていくと、「触れる」という行為に行き着きます。人と人が触れ合うという行為の中で心と体の結びつきが最も明確に表れると考えられるからです。当初はアンケート調査などによってその結びつきを明らかにしようとしていたのですが、オキシトシンの新しい作用が発見されることによって、科学的な証明が可能になりました。

──「触れる」ことと心の働きにはどのような関係があるのでしょうか。

皮膚と皮膚が触れ合うことによってオキシトシンが出て、心が安定したり、幸福感を感じたりすることが明らかになっています。一方、心が安定していると、皮膚の状態がよくなることも分かっています。

手の写真

──ストレスは肌荒れの原因になると言いますよね。

そうです。心の状態は肌に影響するし、逆に肌の状態は心に影響します。つまり、皮膚と心の関係は双方向的ということです。

──まさに皮膚と心はつながっているわけですね。

一般的に、皮膚は「身体を蔽う膜」のようなイメージで捉えられていると思いますが、外界の刺激に反応してホルモンを生成するという点では、皮膚には脳に近い働きがあると言えます。

皮膚は生物にとって最も古い器官であり、触覚は生物が最初に獲得した感覚です。最も原始的な生物に脳はありませんが、皮膚はあります。そこから得られる感覚によって原始生物は生きることができたわけです。その後、進化の過程で鼻や耳や目ができましたが、それらはすべて皮膚が変化したものです。

──原始生物は、皮膚で音を感知するといったことも可能だったのでしょうか。

原始生物だけではなく、現在の私たちも実は皮膚で音を感知しているんですよ。人間の耳には可聴範囲があって、それを超える帯域の音を捉えることはできません。しかし、皮膚は耳が捉えられない高い音や低い音も振動によって捉えています。人がライブやコンサートで聴く生の音に感動するのは、そのような可聴範囲以外の音を体全体の皮膚で感じているからです。CDの発明以降、私たちは主にデジタル音で音楽を聴くようになりました。デジタル音の特徴は、可聴帯域以外の音をカットしてあることです。これはすなわち、「感動成分」をカットしたともいえるでしょう。

山口創氏

──なるほど。だからみんなライブで音楽を聴くのが好きなのですね。ところで、オキシトシンは自分で意図的に出すことも可能なのですか。

五感を楽しませるのは自分でもできることですよね。それによってオキシトシンが分泌されます。さらにそれよりも効果的なのは、セルフタッチです。自分の手で自分の腕などに触れて、軽くマッサージをすることによってオキシトシンが出ることが分かっています。

例えば、ストレスフルな環境にある企業のマネジメントクラスの方々などは、セルフタッチで自分をいたわってあげることによってストレスを軽減させることができるし、部下や同僚に対してもより優しく接することができるようになると思います。

──ビジネスの中でスキンシップを実践するのは現実的には難しいですからね。職場でオキシトシンの効果を得るには、セルフタッチくらいしか方法がないのでしょうか。

職場でのスキンシップはハラスメントになってしまう可能性は考慮しなくてはいけませんね。ただ、例えばハイタッチなど、ハラスメントにならないような触れ合いを取り入れていくことはできるし、効果もあると思います。ある病院で、看護師が患者さんとハイタッチをするようにしたら、病棟全体の雰囲気がすごく明るくなって、退院までの平均期間が短くなったという話を聞きました。職場の雰囲気を良くして、チームワークを高めるためのちょっとしたスキンシップには、チャレンジしてみてもいいかもしれませんね。

コロナ禍収束後人々の意識はどう変わるか

山口氏が執筆した著作の数々。一般層からビジネスパーソン、専門家まで、幅広い読者がいる
山口氏が執筆した著作の数々。一般層からビジネスパーソン、専門家まで、幅広い読者がいる

──コロナ禍以降、急速にリモートワークが普及したことで、職場での触れ合いの機会はむしろ少なくなっています。リモート環境下でオキシトシンの効果を得る方法はあるのでしょうか。

オキシトシンは必ずしも直接的な触れ合いだけによって分泌されるものではなく、相手の顔を見て、声を聞くといった行為によってもつくられます。ですから、メールや電話だけのコミュニケーションよりは、映像を使った対話の方がオキシトシンの効果は得やすいと言えます。ちょっとした要件だけなら効率性を重視してメールでやりとりするのがいいかもしれませんが、できるかぎり映像を使ったコミュニケーションを頻繁に行うことがリモートワークでも社員同士の絆を保つコツだと思います。

──触れ合いやオキシトシンの研究は、現在どのような分野で生かされているのでしょうか。

多いのは医療や介護の現場ですね。「触れる」というのは看護の最も基本的な行為なのですが、最近の看護教育の中では、患者への上手な触れ方を学ぶ機会はほとんどありません。ですから、目の前で苦しんでいる患者がいても、機械の数値だけを見て症状を判断し、異常がなければ何もしない(何をしていいか分からない)といった若い看護師が多いんです。

本来は苦しんでいる人がいれば、まずは手を握ってあげたり、背中をさすってあげたりするのが普通ですよね。そういうごく基本的な癒やしの方法を知らない人たちに対して、触れることの意味やオキシトシンの効果を伝えるのはとても意味のあることだと思っています。

──けがを治すことを「手当て」と言いますからね。

その通りです。患部に手を当てて癒やすのが、最も基本的な医療行為なんですよ。エジプトの古代の壁画にも、医者が患者に触れて病気を癒やしている様子が描かれています。

山口創氏

──今後の研究の見通しをお聞かせください。

コロナ禍が収束した後に、コロナ禍以前と比べて人々の生活や意識がどう変わったか。そんな調査はぜひしてみたいと思います。それによって、「触れ合い」の意味があらためて分かると思うからです。人と触れ合うことが人間にとって本質的な意味のある行為だったということが明らかになる可能性もあるし、逆に触れ合いがなくても人は生きていけると考える人が増えたという結果が出るかもしれません。

──コロナ禍を経験することで触れ合いの大切さが分かったという人はたくさんいるような気がします。

そうあってほしいですね。触れ合いが幸福感を高め、健康を促進することのエビデンスは明確に出ています。触れ合うことが人を幸せにし、それによって人に優しい社会が実現していく。そうなることを期待しています。

山口創氏
〈取材後記〉

東京・町田にある桜美林大学の山口先生の研究室でお話をうかがいました。大学の講義もリモートが主体になっているとのことで、キャンパス内は学生の姿もまばらでした。リモート授業には通学の時間が省けたり、遠隔地の学生が講義を聞くことができたりするメリットがある一方で、やはり大学の講義が本来持つ臨場感はなかなか得られないと山口先生はおっしゃいます。世の中がコロナ禍を脱し、人と人が間近に触れ合うコミュニケーションの価値が再認識された時、山口先生の研究に対する注目度は今以上に高まるのではないでしょうか。

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