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知力を武器とせよ-参謀たちの叡智[前編]-

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三国志に数多く登場する参謀役を通して、知力がいかに大きな戦力となったかを2回に渡って探る。前編では魏の荀彧、呉の周瑜、そして蜀の諸葛亮と、三国を代表する名参謀を取り上げ、彼らの果たした功績を検証する。

インテリジェンスが競争力の源泉に

インテリジェンスが競争力の源泉に

状況がめまぐるしく変わる現代のビジネスでは、情報、通信、先進的なテクノロジーの融合によって、さまざまなイノベーションが生まれている。経営トップ単独の知識や経験では判断が難しいことも多く、参謀役の役割がますます重要になっている。規模の大きな企業では、COO(最高執行責任者)、CFO(最高財務責任者)、CIO(最高情報責任者)が存在し、さらに昨今ではCHRO(最高人事責任者)なる補佐役も登場している。少数精鋭のスタートアップでも、専門的なアドバイスを提供してくれるブレーンを内外に持っている経営者は多い。

参謀役について考えるうえで、三国志は格好の教材である。勇猛な武将たちの激闘は三国志の見せ場のひとつだが、三国志のおもしろさは単なる武力の優劣ではなく、知謀を尽くした駆け引きに負うところが大きい。さまざまな情報を収集・分析し、味方に有利な戦略を導き出す参謀役の仕事ぶりは、とても1800年前の物語とは思えないほど知的だ。現代でいうところのビジネスインテリジェンスが巧みに活用されているのである。

「新訂 孫子」金谷治訳注(岩波文庫)
「新訂 孫子」金谷治訳注(岩波文庫)

ビジネスインテリジェンスという概念が広まりはじめたのは20世紀後半だが、戦略立案における情報活用の重要性は、はるか昔から認識されてきた。このメソッドのルーツもまた中国だ。紀元前6世紀に孫武の著した兵法書『孫子』である。『孫子』は単なる古典ではない。日本も多大な影響を受けたが、その研究者や読者は世界に広がっている。近代では20世紀を代表するイギリスの戦略思想家、ベイジル・リデル=ハートに影響を与え、現代においても欧米の軍事関連の教育機関などで研究されている。グローバルに展開するIT企業の経営者などにも愛読者が多い。
三国志はこの『孫子』ときわめて関わりが深い。魏の曹操は『孫子』における第一級の学者であり、現代に伝えられる『孫子』には曹操が書き込んだ注釈が生かされている。呉の孫権は孫子の末裔であることを自称している。蜀の劉備は学問が嫌いで読んでいないとされるが、『孫子』を熟知した諸葛亮を軍師として迎え入れている。三国志は『孫子』の実践の場ともいえるのだ。三国志の世界にビジネスの視点を投影する人が多いのは、『孫子』の戦略、ひいてはビジネスのストラテジーをそこに見い出すことができるからだ。

今回のテーマは「参謀たちがいかに知力を駆使したか」。三国志のなかでも特に興味深い題材のため、前編・後編の2回にわたってお届けする。前編では魏・呉・蜀それぞれの陣営でもっとも重要な役割を果たしたと思われる参謀役にフォーカスを当てる。そして後編ではその他の主要な知恵者たちを取り上げる。あなたが右腕にしたい参謀役は誰だろうか。

曹操が絶大な信頼を寄せた賢才、荀彧

荀彧 曹操の覇業を支えた天才軍師
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曹操には多くの優秀な参謀役がいたが、最良のひとりをあげるとすると、荀彧(じゅんいく)になるだろう。彼は袁紹(えんしょう)を見限って曹操を主君に選んだ人物だ。若い頃から王を補佐する「王佐の才」があると注目された切れ者である。荀彧を得たとき、曹操は「自分にも張良(ちょうりょう)が来てくれた」と大いに喜んだという。張良とは漢を建国した劉邦の軍師として活躍した人で、参謀役の理想ともいうべき存在である。

曹操肖像
曹操肖像
(Pen 2019年8月1日号
CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

荀彧の知力は、敵を攻略するためだけでなく、経営トップの手腕を高めるためにも活かされた。その好例が当時最大の勢力を有していた袁紹(えんしょう)と雌雄を決した「官渡(かんと)の戦い」である。

豪胆で自信家の曹操だが、袁紹からの挑戦状を受け取ったときは、すっかり戦意を失っていた。袁紹軍10万に対して曹操軍は2万に満たない。明らかに兵力差がある。このとき曹操を鼓舞したのが荀彧だった。彼は袁紹と曹操を比較して、曹操に勝ち目があることをわかりやすく説いた。ポイントをまとめると次のようになる。

荀彧が説く!曹操が袁紹より有利である4つのポイント荀彧が説く!
曹操が袁紹より有利である4つのポイント

部下の起用法

袁紹:鷹揚に見えて猜疑心のかたまりで、部下に仕事をまかせながら、疑うところがある。

曹操:細かなことにこだわらず適材適所に徹している。袁紹よりも度量が大きい。

意思決定力

袁紹:腰が重くて煮え切らず、いつも好機を逃している。

曹操:決断力、応変の才があり、袁紹よりも謀略に長けている。

軍の統率力

袁紹:軍の統制を欠いて軍令が行き渡らず、兵力はあっても強さを発揮できない。

曹操:軍令を確立し、信賞必罰を徹底している。兵の数は劣っていても士気が高い。

側近の資質

袁紹:名門としてのプライドが高く、教養のあるところを見せたがり、まわりの評判ばかりを気にしている。その結果、彼の元に集まっているのは口先だけで行動を伴わない人々が多い。

曹操:わけへだてなく部下を遇し、自分は質素な生活をしながら、功績をあげた者には賞を惜しまない。心ある人物はいずれ曹操のために働きたいと願っている。

絵本通俗三国志 2の3編 曹操官渡戦袁紹
絵本通俗三国志 2の3編 曹操官渡戦袁紹
(国立国会図書館蔵)

もとは袁紹に仕えていた荀彧だけに、袁紹の弱点を鋭くついた競合分析を行い、曹操のモチベーションを高めるインテリジェンスを生み出している。曹操の側にも弱点はあったはずだが、それはあえて伏せておき、進言すべき内容を取捨選択して戦局を有利にする内容に絞ったのである。

新事業をスタートしようとした矢先に、大手企業が競合として参入してきた。現代のビジネスに置き換えるとそんな状況だろう。そこで、絶対に勝てるから迷わず事業を進めましょう、と言い切るのが荀彧である。こんな賢才が参謀役にいたら経営者はこの上なく心強いに違いない。
晩年の荀彧は不幸な死を迎える。曹操が漢王朝を廃して禅譲によって帝位につこうとする動きを見て、出過ぎた行為であると諌めたことをきっかけに、曹操との関係が冷え込んでしまう。荀彧は国政の中枢から外され、追い詰められていく。自分がもう曹操には必要のない人間になったと悟ったときに自ら死を選んだのである。たとえ経営トップに煙たがれようと自分が正しいと思ったことを貫き通す。結果がどうであれ、これこそ参謀役の王道というべき姿といえるだろう。

孫権の基盤確立に貢献した名士、周瑜

周瑜肖像
周瑜肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

周瑜(しゅうゆ)は揚州を代表する名家の出身である。正史『三国志』の周瑜伝には「音楽に精通し、背が高く壮健で美しい容貌だった」と描かれている。できすぎた人物像だが、中立的な記述が多い正史にそう書かれている以上、実際にそうしたキャラクターだったと考えられる。しかも度量が大きく人望があり、呉にとってはかけがえないない人物だった。

二喬讀兵書
孫権肖像
上:東洋名画苑より小田梅僊筆「二喬讀兵書」(国立国会図書館蔵)
下:孫権肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

周瑜は孫権の兄の孫策と同い年で義兄弟の間柄でもあった。美人姉妹として後世に語り継がれる「二喬(にきょう)」のうち、孫策が大喬(だいきょう)を、周瑜が小喬(しょうきょう)を娶っている。正史ではそれぞれ大橋、小橋と表記されるが、中国の人たちの間では「中国四大美人」に匹敵するほど美しい姉妹として親しまれている。

兄の孫策が若くして世を去り、孫権が後を継いだときは弱冠19歳だった。このとき、まっさきに臣下の礼をとり、孫権を支えたのが周瑜だったという。あの周瑜が仕えるならばと、臣下たちはまだ未熟な孫権をリーダーと認め、盛り立てるようになった。

周瑜は曹操と孫権・劉備の連合軍が対峙した「赤壁の戦い」を指揮した名将である。当時の劉備はまだ蜀を建国する前で自分の領地がなく、率いる軍勢もそう多くない。曹操から宣戦布告を受けたとき、張紹をはじめとする多くの臣下が降伏を勧めるなかで、徹底抗戦を主張したのが周瑜と魯粛だ。孫権も抗戦を望んでいたが、独断で決めるわけにはいかなかった。孫権と重臣たちが集まるなかで、周瑜は戦局を分析し、呉の優位点を述べた。要点をまとめると次のようになる。

周瑜が分析!赤壁の戦いで呉が優位である6つの点周瑜が分析!
赤壁の戦いで呉が優位である6つの点

  • 曹操は漢の丞相を名乗っているが、実態は漢王朝をないがしろにする逆臣である。
  • 船の操縦が不得手な曹操の水軍に対し、船に慣れた呉の水軍は遥かに優秀である。
  • 魏の西方では馬超や韓遂の反乱があり、曹操の政権基盤は決して盤石ではない。
  • 現在は冬季で曹操軍の騎馬を養う馬草が充分ではない。江南の風土に人も馬もなじまず、兵士たちは遠征で疲れているので疫病にかかる可能性が高い。
  • 攻めてくる曹操軍は総勢80万と称しているが、実際は16万程度である。そのうち荊州との戦いで投降した軍が8万で曹操に対する忠誠度はそれほど高くない。
  • 精鋭3万の兵を預かれば、必ず曹操を打ち破ってみせる。
曹操肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

周瑜のプレゼンテーションは熱量があり、戦局分析が的確で説得力があった。結果として、判断を留保していた孫権を奮い立たせ、群臣たちの意識を変える。張紹らの名士たちは、万一、呉が曹操の傘下になったとしても、それなりの待遇が与えられるという読みがあり、曹操に刃向かうリスクを取るよりも現状維持を望むようなところがあった。そんな生ぬるい空気を周瑜が一変させたのである。実際、周瑜の予測はことごとく的中し、曹操を退けることに成功する。

孫権の基盤確立に貢献した名士、周瑜

ビジネスに置き換えると、有力企業との吸収合併の道を選ぶか、それとも独立を保ち自社の企業文化を貫くかというような局面である。周瑜が行ったのは、まさにプロフェッショナルの参謀役としての仕事だ。トップの意思決定、判断の精度を上げるために、事業運営について現況分析をし、事態を打開する提言を行った。企業が存亡の危機に立たされたとき、どのような人材が本当に頼りになるのか。周瑜の行動が身をもって示してくれる。

劉備の躍進を支えた天才軍師、諸葛亮

諸葛亮肖像
諸葛亮肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

蜀を代表する参謀役といえば、諸葛亮をおいて他にない。本拠地もなく流浪を続けてきた劉備が一国の主になれたのは彼がいたからこそである。劉備にスカウトされる前は眠れる龍を意味する「臥龍(がりょう)」と呼ばれ、誰に仕えることもせず、隠遁者のような生活を送っていたが、職がないのではなく、自分にとってもっとも条件のいい勤務先が見つかるまで待機していたのである。諸葛亮の天才ぶりを示すエピソードは数多くあり、とても語りきれるものではないが、その知力の凄みをもっともよく表すものは、初対面の劉備に対して、すぐに覇権のためのロードマップを提示したことだろう。

いわゆる「三顧の礼」で、劉備が三度目に諸葛亮の家を訪れたとき、ようやく面会がかなった。しばらく言葉を交わしたのち、劉備は諸葛亮にこんな質問を投げかけている。

劉備肖像

「漢の王室が傾き、曹操が天子を利用して権勢をふるっている。自分は徳や力のなさを顧みず、大義を示そうとしたが、知恵も戦術も浅はかで疎く、失敗して今日に至っている。だが志をあきらめたくない。どんな計略がありえるだろう」

劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

これに対する諸葛亮の答えは「隆中対(りゅうちゅうたい)」として広く知られるものである。かいつまんで言うと次のような内容になる。

諸葛亮
  • 曹操は百万の兵を擁し、天子の献帝を庇護して諸侯に号令しているため、 正面から対等に戦うことはできない。
  • 孫権は江東に領有してすでに三代、国の守りは固く賢者が臣下にあり、 味方とすべきで敵対してはならない。
  • 荊州は川の便がよく交易は南海にまで達し、東は呉、西は蜀に通じる。武による統治が必要だが、主の劉表は守りをおろそかにしている。
  • 益州は険しいが肥沃な土地が広がる。漢の高祖、劉邦もここを拠点とした。しかし主の劉璋は暗弱で、蜀の賢者たちは名君を望んでいる。
  • 荊州と益州を領有し、西と南の夷狄を手なずけ、孫権と手を結び、内政を正しく行えば、天下の変に応じて魏を討つことができる。そうすれば漢を再興できる。
荊州、益州

諸葛亮は劉備の抱える現況を的確に分析し、即座にミッションとソリューションを示したのである。この返答の中には、魏・呉・蜀の3国で国を分け合うという有名な「天下三分の計」が含まれているが、このときの劉備は荊州の劉表のもとに身を寄せているフリーランスの傭兵将軍のような状態で、まだどこにも拠点を持っていない。諸葛亮のアドバイスは、言い方を変えると、荊州を乗っ取り、益州を攻め取れということになる。賢者の助言としてはやや荒っぽいが、それぐらい覚悟を決めてやらないと低迷状態から抜け出せないぞという叱咤激励が含まれている。その後、劉備が行ったことは、このプランの通りだ。三顧の礼が207年、荊州の一部を手に入れたのが208年、そして益州を獲得した蜀入国が214年、7年かけて構想を実現したのである。

208年の赤壁の戦いでは、荊州から逃れる劉備に孫権と手を結ぶ道を示し、名代として自ら孫権と交渉し、同盟を結ぶことに成功した。まさにタフネゴシエーターというべき手腕である。 三顧の礼の頃は参謀役は諸葛亮ひとりだったが、蜀に入国した頃には多くの俊才が顔を揃えていた。荊州に滞在していた時代、諸葛亮が自ら逸材を集め、育成していたのだ。蜀を得たときのために内政を担当できる補佐役をあらかじめ用意していたのである。

短期的な戦略を提言できる参謀役はすぐ見つかるかもしれない。だが、諸葛亮のように長期の戦略の提言を行い、実現のために周到な準備を行い、ゴールまで導くことができる人は稀有である。経営者は自分よりも優秀な参謀を使える器量がなければならない、とよくいわれる。そのためには参謀役にリスペクトされる何らかの要素を経営トップが持っている必要がある。劉備の場合、それが人間的な魅力であった。諸葛亮のような参謀役をブレーンに迎えることは、経営者の目標のひとつといえるだろう。

木牛流馬 再現模型
木牛流馬 再現模型(三国志グッズ英傑群像)

劉備の亡き後は、自らが蜀の王となる道もあったが、丞相として後継者の劉禅(りゅうぜん)をよく補佐し、曹操に果敢に立ち向かった。元戎(げんじゅう)と呼ばれる10本の矢を連射できる連弩(れんど)や、戦時の兵糧輸送車である木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)を開発するなど、CTO(最高技術責任者)としても天才ぶりを発揮している。参謀役という枠をはるかに超えたケイパビリティの持ち主だったといえるだろう。このときの諸葛亮の働きぶりについては、別の回であらためてふれたいと思う。

第2回まとめ第2回まとめ

荀彧
魏の名参謀

職能:戦略計画の策定、後方基地経営も巧みにこなす、万能の戦略家。

評価:頭脳明晰、洞察力があり、人を動かす力がある。晩年は帝位につこうとする曹操を諌め、不幸な最期を迎えるが、相手の嫌がることも堂々と進言する胆力がある。

周瑜
魏の名参謀

職能:戦略立案能力、分析力が鋭敏。プレゼンテーション能力も高い。

評価:知的で、軍事に明るく、人柄もいい。孫権の兄、孫策と同年で、若い孫権をよく補佐した。スマートな外見に反して熱血漢なところがあり、正しいと思ったことを貫き通す。

諸葛亮
魏の名参謀

職能:先を読む能力が高く、緻密な戦略を練る。オリジナルの武器も開発。

評価:天才的な頭脳の持ち主。コミュニケーション力が高く、ネゴシエーターとしてもきわめて有能。劉備の亡き後も宰相として補佐に徹するなど信義に厚い。

「荀彧 曹操の覇業を支えた天才軍師」風野真知雄著 PHP研究所 電子版のみ発売中

問題解決力、戦略思考力、事業構想力など、名参謀たちから得られるヒントは多い。三国志にはまだまだ逸材が登場する。次回も参謀役をテーマに、知の力について迫っていきたい。

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