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コラボレーションで成果を上げる -「赤壁の戦い」の協創-

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三国志のハイライトともいえる「赤壁の戦い」。曹操軍の侵攻を食い止めるために、孫権軍と劉備軍の同盟を成立させたキーマンを中心に、このコラボレーションが魏呉蜀の三国にどのような影響を与えたかを掘り下げる。

外部と手を組み、事業を成功させる

湖北省赤壁
湖北省赤壁

「赤壁の戦い」は三国志のなかでもっとも重要な戦いとされる。この戦いによって、孫権と劉備が曹操の勢いを止め、三国が鼎立(ていりつ)するきっかけとなった。
さまざまなエピソードが知られている赤壁の戦いだが、実は正史の『三国志』にはわずかな記録しか残されていない。その多くは『三国志演義』で話を盛り上げるために脚色されたフィクションといわれている。
たとえば正史の『三国志』武帝紀では「公(曹操)は赤壁に至り、劉備と戦ったが、勝つことはできなかった。疫病が流行り、死者が多く出たので、軍を引いて帰還した」とわずかな記述があるのみだ。

フィクションの部分はさておき、赤壁の戦いを機に孫権軍と劉備軍が同盟を結び、曹操軍の侵攻をくいとめたことはまぎれもない史実である。ビジネスの世界に置き換えると、曹操の陣営がリーダー企業だとしたら、孫権と劉備の陣営はチャレンジャーといえる。チャレンジャーがリーダー企業に対抗するためには、一般的に3つの戦略があるといわれている。

(1)独自の路線で強みを発揮する「差別化戦略」
(2)特定の分野に経営資源を集中する「集中戦略」
(3)既存のルールを変えてしまう「イノベーション」

魯粛、諸葛亮肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
魯粛、諸葛亮肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

孫権陣営と劉備陣営がとった戦略は、どちらかというとイノベーションに近い。中国は統一されるべきものという常識を変え、3つの国があってもいいじゃないか、という大胆なパラダイムシフトを行ったのである。その新しい世界像を成立させるために、まだ定まった領地もない劉備の陣営を、バーチャル国家的な存在として打ち出したところに革新性がある。最初に三国鼎立というビジョンがあり、その実現のために孫権陣営と劉備陣営がコラボレーションを推進したのである。そのキーパーソンは、それぞれ独自に天下三分の計を構想していた魯粛と諸葛亮である。
どちらの人物も組織にとって大きな戦力となるネゴシエーターである。だが、そうした交渉のエキスパートを得ることは通常ではむずかしい。ならば人材を育成しようじゃないか、ということで現代のビジネスには「交渉術」というコミュニケーションの技術が確立されている。アメリカのハーバード大学ロースクールが交渉のプロを養成する「Program On Negotiation(PON)」というプログラムを編み出したのである。
そこで学ぶのは相手を力づくでねじふせるような交渉ではなく、うまく相手の合意を得る技術である。このプログラムを立案したロジャー・フィッシャー、ウィリアム・ユーリーによる著書『Getting to Yes』は、日本でも『ハーバード流交渉術 必ず「望む結果」を引き出せる!』 (三笠書房) として出版されている。いかにして複数の利害関係者が合意にたどり着くか、全体としてベストの結論を導き出せるかという「合意形成のための説得術」が主な内容となっている。その交渉のスキルは、魯粛と諸葛亮のやり方と重なり合うところが多い。

今回はこの2人の参謀役のコラボレーションによる成功事例として「赤壁の戦い」を捉える。トップ企業の視点からは、さらなるシェア拡大にはどんなリスクが存在するか。チャレンジャー企業の視点からは、トップ企業に対抗するにはどんな策を打つべきか。そんなビジネスの参考となるようなヒントを導き出したいと思う。あなたならどの視点から、この戦いを見るだろうか。

さらなる勢力拡大を狙い、呉に迫る曹操

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赤壁の戦いの前、華北をほぼ統一し、勢いに乗る曹操は、劉備が身を寄せていた荊州を説得工作によって降伏させ、呉に迫る。曹操は孫氏の兵法をよく学んだ人で、最良の策は「戦わずして勝つ」ことを心得ている。領主や重臣たちに恵まれた地位と待遇を与え従わせるほうが、むやみに兵を失ったり、経営資源を減らしたりすることもなく、はるかにコスト効率がいい。

このあたりの手法は、現代のビジネスのM&Aにも通じる。急速な成長を続ける企業がさまざまな会社を吸収合併していくなかで、自社の経営スタッフや企業文化を強引に押し付けると反発が強い。相手の人材や仕事の手法を尊重しながら、徐々に改革や統合を進めていくほうが結果としてうまくいく場合が多い。特に曹操は徐州において自身の家族が殺された報復として大虐殺を行い、多くの反発を招き、その後の徐州の統治に大変な苦労をした経験がある。その反省もあってか、ソフトパワーによる統治の重要性を身をもって理解していたといえる。

曹操、孫権肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
曹操、孫権肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

曹操は孫権に宣戦布告ともいうべき手紙を送っている。

「水軍八十万の衆を治め、まさに将軍と呉に会猟せん」

「水軍八十万の兵を整えて、呉で孫権と狩りを楽しみたいものだ」といった意味で、かなり挑発的な内容である。水軍八十万で攻めてくると聞けば、相手は戦意を喪失するものだが、呉は曹操軍の戦力を冷静に分析し、八十万は誇張と見極め、戦いを挑んできた。
曹操軍の主力部隊である北方の軍は、騎馬隊を軸にした地上戦は得意とするが、水上戦の経験は皆無に等しい。そのため曹操は新たに傘下に加えた荊州の出身者を中心に水軍を編成する。だが急造の部隊だけに水上戦に不慣れなうえ、兵士たちは船酔いに悩まされる。しかも疫病が発生し、多くの死者が出た。死者は船ごと焼却したので兵力は次第に先細っていく。
曹操の参謀役の郭嘉(かくか)は赤壁の戦いの前に早逝してしまったが、生前に南方で戦う場合の疫病のリスクを予言していたという。被害の大きさは曹操の想像以上のものだったに違いない。

結果として、周瑜の巧みな火攻めによって曹操軍は大敗する。圧倒的な兵力を強みに、急速に勢力を拡大してきた曹操の油断と奢りがあった。未経験の分野や不得意な領域に進出するときは、ビジネスにおいても慎重な行動が求められる。もっとも重要なのは、その道に精通したエキスパート人材を獲得あるいは育成し、活用することだろう。
『三国志演義』では、曹操は水軍の指揮を元荊州の臣下で水軍の扱いに慣れた蔡瑁(さいぼう)と張允(ちょういん)の2人にまかせている。周瑜の策略でこの2人が謀反を企んでいるという偽の情報を流し、疑念を抱いた曹操は彼らを処刑する。これによって水上戦を指揮する武将がいなくなり、水軍の戦闘力が低下する設定になっている。この逸話はフィクションとされるが、曹操軍の敗因を的確に示した分析といえるだろう。

三国志クイズ

      • 「官渡の戦い」で袁紹が曹操に破れた決定的な理由はある情報がもれたため。
        その情報とは?
      • 「赤壁の戦い」で曹操が負けた大きな原因はふたつ。ひとつは周瑜による火攻め。
        もうひとつは?
      • 「樊城(はんじょう)の戦い」で曹操軍を攻めていた関羽は敗れる。
        敗因は曹操軍がある勢力と手を組んだため。その勢力とは?
      • 「夷陵(いりょう)の戦い」で劉備が孫権に破れた原因は陣営にあった。
        どうなっていた?
      • 「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で蜀軍は撤退する。その敗因は?

気になる解答はページの最後を!ぜひご覧ください。

劉備と同盟を結び、曹操に立ち向かった孫権

赤壁の戦いを描いた映画『レッドクリフ』では周瑜(トニー・レオン)と諸葛亮(金城武)がお互いの才能を認め、力を合わせて曹操軍に立ち向かう姿が描かれている。魯粛(ホウ・ヨン)は、諸葛亮と周瑜の間をとりもつ調整役として、どこかユーモラスな役どころとなっている。『レッドクリフ』は正史に近い三国志を描こうとした映画らしく、『三国志演義』で周瑜が諸葛亮の才能を恐れ、殺意を抱くような設定はない。周瑜と諸葛亮の仲が悪かったという設定は、『三国志演義』が物語を盛り上げるために導入された脚色といわれている。

曹操が呉に攻めてくることがわかったとき、重臣の張昭(ちょうしょう)をはじめとする呉の臣下は、曹操に降伏するべきと考える者がほとんどだった。曹操を迎え撃ちたいと考えていた孫権だったが、こうした降伏派の勢力に押され、自分の意思を通し、抗戦に踏み切ることができなかった。その孫権の背中を押したのが、魯粛と周瑜、そして諸葛亮だった。

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魯粛と諸葛亮は、ほぼ同時期に「天下三分の計」を構想していた。それだけに考えが通じ合う仲になれたのかもしれない。2人のプランは国を三分割すると考えたところは同じだが、その内容が微妙に異なっている。諸葛亮のプランでは三国鼎立は仮の状態でいずれは曹操を打ち破り、漢王朝を復興するというものだ。三国鼎立はあくまで手段にすぎない。魯粛のプランは曹操を打ち負かすことはもはや困難であり、漢王朝の再興はあきらめて、長江流域を抑えて皇帝になるべし、というものだ。三国鼎立は呉の存続をはかる戦略となっている。長期的な目標は違うが、三国鼎立という短期的な目標は共有できるものだった。
そもそも孫権も周瑜も、劉備と同盟することは考えていなかったが、魯粛の強い働きかけによって実現したのである。当時の劉備は領地をもたず、荊州で客人として滞在していたにすぎない。しかも曹操に追われて逃げてきた身である。関羽、張飛、趙雲といった猛将はいるものの、曹操に負け続けている弱者であり、同盟を結ぶに値しない。それが呉の劉備に対する評価だ。

劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

しかし、魯粛の考えは違った。劉備は世間からは英雄と目され、信望がある。この劉備を曹操に立ち向かう勢力の一角に据えることで、曹操に立ち向かうことができると魯粛は考えたのである。現代のビジネスの視点から解釈すると、潜在力はあるのに日の目を浴びる機会のなかった劉備というブランドをより強化し、この勢力を利用することでトップ企業の独走を阻む抑止力になり得ると考えたのである。
実際の赤壁の戦いでは、水上戦は孫権軍、地上戦は劉備軍という役割分担を行い、曹操に決定的な打撃を与えたのは周瑜が率いる水軍だった。劉備陣営は別働隊として加勢したにすぎない。だが曹操にとっては孫権と劉備が同盟関係にあるということが大きなプレッシャーとなり、戦局に影響を与えていたと考えられる。正史の『三国志』には孫権軍と劉備軍がともに戦った具体的な記述はないが、両陣営のコラボレーションが曹操軍にどのようなダメージを与えたかを想像するのは、なかなか知的なゲームといえる。

赤壁の戦いの勝利を、蜀建国につなげた劉備

劉表肖像
劉表肖像

赤壁の戦いの前、拠点をもたない劉備は荊州の牧、劉表を頼って客人として滞在していた。しかし曹操の荊州攻略によって、突如として追われる身となる。劉表の死によって後を継いだ荊州牧の劉琮は曹操に降伏することを、劉備にはまったく知らせていなかったのである。曹操に帰順する気のない劉備にとっては逃げるしかなく、もとより領地をもたなかった劉備だが居場所まで奪われてしまった。このピンチをチャンスに変えたのが、劉備に仕えてまもない諸葛亮だった。

正史の『三国志』諸葛亮伝には、諸葛亮が劉備に孫権と結ぶ道を示し、自ら孫権を説得し、同盟を結んだと記されている。諸葛亮は劉備の使者として魯粛と一緒に呉に行き、孫権と会見する。そこで次のような趣旨のことを述べた。

諸葛亮

(1)曹操の勢力が増して、劉備は英雄だが一時的に遁走して兵力を集めている。
(2)もし孫権が曹操と拮抗する力をもっているならすぐに断交すべきである。
(3)戦っても勝てないのなら曹操に仕えるべきだ。

諸葛亮はわざと突き放すような言い方で、孫権の自尊心を刺激する。これに対して孫権は諸葛亮の論理で考えるならば「曹操に負け続けている劉備がなぜ曹操に服従しないのか」と質問をする。諸葛亮は次のような答えを返した。

劉備

「秦の末期に斉王だった田横は義を守って、自分の国を打ち負かして漢の皇帝となった劉邦に仕えるという屈辱を受けませんでした。まして主君の劉備公は漢室の血筋をひく人であり、その英才は広く知れ渡り、慕われています。もし曹操に勝つことができなかったとしても、それは天意によるもの。曹操の配下になることはありえないのです」

またもや孫権を苛立たせるような言葉を用いた。さらに孫権は「逃げてきたばかりの劉備の戦力で曹操という強敵に勝てるのか」と問う。諸葛亮はここではじめて提案を行う。「劉備軍で1万、味方である劉表の子息、劉琦の軍が1万ある。北方の軍は水上戦に弱く、曹操が新たに得た荊州の兵は士気が低い。劉備軍と孫権軍で力を合わせれば、必ず曹操に勝つことができる」。

ハーバード流交渉術 必ず「望む結果」を引き出せる!(三笠書房)
ハーバード流交渉術 必ず「望む結果」を引き出せる!(三笠書房)

ここにきて諸葛亮は優れた交渉術を見せるが、その手法はハーバード流交渉術と似たところがある。ハーバード流の交渉術は、駆け引き型の交渉から抜け出し、友好的かつ効率的に優れた結果を導き出すことを目的としている。「原則立脚型交渉」または「実体重視交渉」と呼ばれるもので、次の4つの原則から構成される。

(1)人.........人と問題を切り離す
(2)利益...「条件」や「立場」ではなく利益に注目する
(3)選択肢...お互いの利益に配慮した複数の選択肢を考える
(4)基準......客観的基準に基づく解決にこだわる

人については、劉備という人格の好き嫌いはともかく、曹操に対抗することが最大の問題であることを明確にする。利益については、孫権の最大の懸念である呉に侵攻する曹操の南下をくいとめることを強く打ち出した。選択肢については前段で、曹操に屈するのか、それとも戦うのかという二者択一を提示している。そして基準については、具体的な兵力を出すとともに、曹操軍の「八十万」という兵力が実体を伴わず、さほど脅威ではないことを説いた。劉備軍だけでなく、荊州の劉琦軍の加勢という「ファクト」をアピールしたあたりも巧みといえる。

この諸葛亮との会見が孫権の闘志に火をつけ、心を大きく動かすことになった。このあと孫権は曹操からの宣戦布告を受け取り、さらに魯粛の説得、周瑜の主戦論によって、曹操と戦うことを決意するのである。
呉との同盟をきっかけに、赤壁の戦いの勝利後、劉備は荊州の南部に念願の領地を得ることができた。さらには蜀の建国につながる益州を手に入れる足がかりとなった。諸葛亮が孫権に対して行ったプレゼンテーションは、まさに値千金の価値があったといえるだろう。

イメージ

最初に相手をちょっと怒らせるようなトークを投げかけながら、相手の心理状態を観察しつつ、最後に疑念や心配を吹き飛ばすようなソリューションを提示する。この巧みな話術が相手にあまりメリットのないと思われていた同盟でも成立させた。
ハーバード流の「原則立脚型交渉」はあらゆる交渉に応用が効くとされるが、このときの諸葛亮の巧みな会話の組み立て方もまた、コミュニケーションの作法として現代のビジネスで大いに参考になるといえるだろう。

「草船借箭の計」を描いた絵画
「草船借箭の計」を描いた絵画

正史には赤壁の戦いにおける劉備軍の動きはほとんど記載されていない。劉備を主役に据えた『三国志演義』では、その空白を埋めるべく、いくつかの名場面が用意されている。
代表的なのが、10万本の矢を集める「草船借箭の計(そうせんしゃくせんのけい)」だ。10万本の矢を用意してほしいと周瑜に頼まれた諸葛亮が、霧の濃い夜に干し草を載せた船団を曹操軍に差し向ける。敵の襲来と思った曹操軍がその船に大量の矢を放ち、干し草に刺さった矢を持ち帰るという話だ。
また呉の老将、黄蓋(こうがい)が偽の投降をすると見せかけて、曹操の船団に火を放つ「苦肉の計」の場面では、諸葛亮が火攻めに有利な「東南の風」を呼び起こし、一気に相手に攻め込む話がある。
さらに、こんなエピソードもある。周瑜に破れて逃走する曹操を、関羽が華容道(かようどう)で待ち伏せして討つ計略だったが、これをわざと見逃す。関羽にはかつて捕虜となり曹操に仕えていたときに厚遇してもらった恩義があり、その恩返しをしたという。
どれも印象的な話だが、残念ながらすべてフィクションといわれている。しかし史実と思っている人も多いに違いない。このシリーズでは史実を主体としているため多くを語らないが、たとえ架空の中にもビジネスに役立つ英知が秘められているのが、三国志の奥深さといえるだろう。

第5回のまとめ

曹操

曹操軍の赤壁の戦い

周瑜との水上戦で大敗する。
疫病の影響もあるが、優秀な水軍の指揮官の不在が敗因のひとつ。

孫権

孫権軍の赤壁の戦い

魯粛と周瑜の働きによって降伏派の勢力を抑え曹操に抗戦。
曹操に中国統一を断念させる。

劉備

劉備軍の赤壁の戦い

劉備の使者となった諸葛亮が開戦か降伏かで迷う孫権を説得。
戦後、三国鼎立の足がかりを築く。

曹操、孫権、劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

孫権軍、劉備軍、それぞれ単独では勝てない相手に同盟というコラボレーションで打ち勝った赤壁の戦い。信頼関係ゼロの状態から同盟を築き上げ、お互いの不信や利害をのりこえてプロジェクトを成功させたところに現代のビジネスにも通用するヒントがある。実際にはどんな「協創」を行ったのか。この目で見てみたいものだ。

クイズの解答はこちら!

  • 「官渡の戦い」で袁紹が曹操に破れた決定的な理由はある情報がもれたため。
    その情報とは?
    →食料基地の場所(袁紹の参謀役の許攸がもらした)
  • 「赤壁の戦い」で曹操が負けた大きな原因はふたつ。ひとつは周瑜による火攻め。
    もうひとつは?
    →疫病が流行したため
  • 「樊城(はんじょう)の戦い」で曹操軍を攻めていた関羽は敗れる。
    敗因は曹操軍がある勢力と手を組んだため。その勢力とは?
    →孫権軍
  • 「夷陵(いりょう)の戦い」で劉備が孫権に破れた原因は陣営にあった。どうなっていた?
    →陣営が長くのびきっていた
  • 「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で蜀軍は撤退する。その敗因は?
    →長期戦となり諸葛亮が病気で亡くなったため

※⑤のクイズにつきましては、読者のT様からいただいたコメントを元に問題を作成いたしました。
T様、コメントをお寄せいただきありがとうございました。

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