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【三国志から学ぶ人財戦略】第6回 事業承継を考える -後継者たちの明暗-

三国志は今から1800年以上も前の中国を舞台に繰り広げられた物語である。
これまで幾度となく小説、映画、漫画、ゲームの題材となり、ビジネスでも教材に取り上げられてきた不滅のコンテンツともいえる。
なぜ、いま三国志なのか。それはこの物語で展開される人材活用の妙にある。
人材不足が問題となる一方で、多くの仕事がAIに代用されていく現代。
いかなる「人“財”戦略」が必要なのか。三国志を通して考えていきたい。

カリスマの後を継ぐ人材育成が課題に

カリスマの後を継ぐ人材育成が課題に

曹操、孫権、劉備の攻防は三国志のハイライトだが、彼らの亡き後、三国の行く末がどうなったのかは、あまり話題にならない気がする。しかし後継者問題と人材マネジメントという観点からすると、三国の末路はきわめて興味深い示唆を含んでいる。日本においても後継者の問題は深刻で、帝国データバンクが2019年に発表した「後継者問題に関する企業の実態調査」によると、国内企業の約3分の2にあたる65.2%が後継者不在だという。なぜ後継者が不足してしまうのか。そんな問題にヒントを提供してくれるのも三国志なのである。

袁紹肖像
袁紹肖像

魏・呉・蜀それぞれの後継者問題を考えるとき、先に見ておきたいのが袁紹の例である。袁紹の家系は漢王朝で四代にわたり三公と呼ばれる重要な官職に就いてきた名門中の名門で、曹操が力をつける前は彼こそが次世代の天下人にふさわしいと思われていた。「官渡(かんと)の戦い」で曹操に敗れはしたが、袁紹には袁譚(えんたん)、袁煕(えんき)、袁尚(えんしょう)と3人の息子がいた。さらに袁買(えんばい)という四男がいたという説もある。彼らが結束して力を合わせれば、曹操に立ち向かうこともできたはずだ。
しかし、袁紹が後継者を指名せずにこの世を去ったため、兄弟たちは仲違いし、熾烈な後継者争いを繰り広げることになる。袁紹の考えでは子どもたちにひとつずつ州を与え、いちばん成果をあげた者を世継ぎにしようと考えていたらしいが、それが裏目に出た。もっと早い段階で後継者を選んでおけば無駄な争いは起きず、袁家の運命も違ったものになっていたかもしれない。

『ドラッカーが教える最強の後継者の育て方』(山下淳一郎 著/同友館)という本がある。そこでは経営学者のピーター・ドラッカーが、事業承継についてどんな考え方をしていたかが述べられている。その考えを集約したのが次の言葉だ。
「一人のトップマネジメントからトップマネジメントチームへの移行がなければ、企業は成長どころか存続もできない。成功している企業のトップの仕事は、チームで行われている」

マネジメントとは個人から個人へのバトンタッチではなく、経営チームを育成し、そのチームに権限を移行することが最も安全な世代交代につながるという考え方である。さらに後継者の育成についてはこう述べている。
「自らを存続させられない組織は失敗である。したがって、明日のマネジメントを担うべき人材を今日準備しなければならない」
そうした視点からすると、次代のマネジメントの担い手を息子たち個人に限定し、しかも後継者の決定を先送りにした袁紹のやり方に難があったことが明快になる。
はたして曹操、孫権、劉備ら三国のトップたちの後をどんな人物が継承したのか。どんなサポートスタッフを育成していたのか。今回はそこに焦点を当てていく。さて、あなたの会社は次世代の人材育成のために、どんな準備をしているだろうか。

後継者に恵まれながらも短命に終わった魏

曹操肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウスイラスト:阿部伸二)
曹操肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

曹操には男子だけで25人の子がいた。きわめて後継者に恵まれていたといえる。なかでも長男の曹丕(そうひ)、三男の曹植(そうしょく/そうち)は傑出した才能をもっていた。曹丕の上には曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)という2人の兄がいたが相次いで世を去り、曹丕が事実上の長男となった。曹丕はそつなく何でもこなす秀才型タイプで、後継者として申し分のない資質を備えていた。曹植は文学の才能があり、もっとも曹操の寵愛を受けたといわれる。持ち前の芸術家気質から失態も多かったが、それを補って余りある人間的な魅力があったという。現代においても詩人として高く評価されている。

曹操は曹丕と曹植のどちらを後継者にするか迷ったあげく曹丕に決めた。参謀役として信頼の厚かった賈詡(かく)に意見を求めたところ、彼は即答を避けたが、その代わり「袁紹と劉表のことを考えていました」と述べた。袁紹も劉表も長男を後継者に指名しなかったことで後継者争いが起きて国を失った。その事例から判断すると、長男の曹丕が後継者にしたほうが賢明であることを婉曲的に表現したのである。曹操は大いに納得し、この献策を受け入れたという。

こうして曹丕は曹操の生前から副丞相として父の補佐役を務め、曹操の死後は漢王朝からの禅譲という形式で魏の初代皇帝として即位する。現代のビジネスにも共通していえることだが、創業者の築いた基盤をさらに発展させることができるかどうかは2代目の手腕にかかっている。その人選においては曹操の目に狂いはなかった。
曹操が人材コレクターだったこともあり、曹丕のもとには優秀な人材が配置された。代表的なのが、曹丕の四友(よんゆう)と呼ばれた人たちである。司馬懿(しばい)、陳羣(ちんぐん)、呉質(ごしつ)、朱鑠(しゅしゃく)の4人で曹丕が太子の時代から仕えてきた、いわばチーム曹丕のアドバイザリースタッフともいうべき人材だ。

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しかし曹丕は即位から7年、40歳の若さで世を去ってしまう。弟たちは自分の身を脅かすものとみなし、早々に政権の中枢から排除していた。当時の中国において、ライバルとなる兄弟を亡きものにすることは珍しいことではない。日本でも源頼朝と義経、織田信長と信行など、兄弟間の骨肉の争いには多くの例がある。現代のビジネス視点からすると、プランAが遂行不能になったときに備えて、プランBを考えておきたいところだが、中国に限らず、当時の人たちにそうしたマネジメントの発想はない。

司馬懿肖像
司馬懿肖像

曹丕の後を継いだ曹叡(そうえい)はあまり有能とはいえず、しかも短命で36歳で世を去った。次にわずか8歳の曹芳(そうほう)が即位するが、彼は曹叡の実子ではなく、親族から迎えた養子である。曹叡は死の直前に大将軍の地位にあった司馬懿と曹爽(そうそう)を呼び、幼い曹芳を補佐するよう遺言を残している。曹爽は曹操の甥である曹真(そうしん)の子だが、この曹爽が魏の存続を危うくする原因となった。

司馬懿を太傅(たいふ)という名誉職に祭り上げて実権を奪い、横暴な専横政治を行い、魏の国は大いに乱れた。このときすでに60歳を超えていた司馬懿は老いたふりをして隠居する。やがて司馬懿はクーデターを起こし、曹爽の勢力を一掃する。このとき司馬懿は71歳だった。彼のあとを長男の司馬師、さらに次男の司馬昭が受け継ぎ、その子の司馬炎が魏を廃し、普を樹立するのである。

現代のビジネスに置き換えるならば、経営能力のない創業一族がトップの座を追われ、長年功績のあった重役が経営権を握り、新しい会社としてスタートしたことになる。社名は変わったものの経営資源は受け継がれている。クーデターという形になったが、外部から侵攻したのではなく内部での交代劇であり、現代の事業承継やM&Aの視点から見ると、一種の経営権の移譲と考えることもできる。曹爽のような身勝手な経営者によるガバナンスの迷走を阻止したという意味では、ステークホルダーである官僚や軍部、人民にとって歓迎すべきことである。
優秀な経営スタッフを育成し、後継者問題に万全の手を打ったはずの曹操であったが、それでも彼の築いた体制は長く続かなかった。事業承継のむずかしさをあらためて思い知らされる魏の例である。

三国志クイズ

    • 袁紹の後継者として争った3人の息子の名前は?
    • 曹操の後を継いだ曹丕(そんひ)。その後を継いだのは?
    • 孫権の後継者、孫登(そんと)が早世したため呉で起きたお家騒動。その事件の名前は?
    • 劉備の死後、後継者の劉禅のために諸葛亮が書いた文書の名前は?
    • 「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で諸葛亮は病没するが、魏の司馬懿はその死を偽装と疑い撤退する。このできごとにちなんだ故事を何という?

    気になる解答は次ページの最後に!ぜひご覧ください。

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