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【現代に活きるチームの力学 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり】第2回 「織田家臣団」〜アメとムチの能力主義〜

乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。
家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

織田信長の厳しい評価をパスした実力派たち

左:織田信長肖像(長興寺蔵・写真協力:豊田市郷土資料館)、右:当時の尾張の図
左:織田信長肖像(長興寺蔵・写真協力:豊田市郷土資料館)、右:当時の尾張の図

織田信長というと、優秀な家臣を数多く抱えていた印象があるかもしれない。だが、最初から家臣に恵まれていたわけではない。信長が家督を継ぐ前、生地の尾張は上4郡と下4郡に分かれて統治されていた。父の信秀は下4郡を治める織田大和守家(おだやまとのかみけ)の奉行で、尾張の新興勢力のひとつにすぎず、多くの家臣を召し抱えるような大領主ではなかった。
しかも信秀の死後は、信長は次弟の信勝(信行ともいわれる)と激しく対立し、家督争いが起こる。信長は周囲から「大うつけ」とみられ、信勝のほうが後継者にふさわしいとみる家臣たちが多く、信勝とともに有力家臣たちが公然と反旗を翻したのである。のちに信長の重臣となる柴田勝家や林秀貞は、このとき信勝の味方をしている。信長の側についたのは、古株の佐久間信盛(のぶもり)や森可成(よしなり)を除くと、丹羽長秀、前田利家、池田恒興(つねおき)など、信長の代から仕える若武者たちだ。現代の会社組織に置き換えると、親の事業を承継したものの、古参社員の多くが抵抗勢力で、信頼できるスタッフが数えるほどしかいない。そんな状況だったといえる。

だが、尾張の統一に向けて、信長が卓越した手腕を発揮し始めると、敵対していた柴田勝家や林秀貞らも信長の能力を認め、有能な家臣が次々と集まるようになる。
信長の人材活用の特色は、身分や生まれにこだわらず、実力のある者を分け隔てなく採用するところにある。代表的なのが母衣(ほろ)衆と呼ばれる組織だ。信長が目をつけた勇猛果敢な若手を直属の精鋭部隊として採用し、黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)の2つのチームを編成した。互いをライバルとして競わせながら実戦を重ね、将来の幹部候補生を育てたのである。のちに加賀百万石の礎を築く前田利家も赤母衣衆の一員だった。

尾張を統一する1554年(天文20年)の頃には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、滝川一益といった、のちに大きな活躍をする者も家臣に加わっていた。その後、1567年(永禄10年)に美濃を攻略する際には、稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全といった美濃三人衆と呼ばれた名将を家臣にするなど、外部からの人材獲得も積極的に行っている。1568年(永禄11年)の上洛に際しては、足利義昭に仕えていた明智光秀や細川幽斎(藤孝)も家臣にしている。成長力のある企業に多くの人材が集まるように、天下布武を掲げる「カリスマ経営者」信長のもとには各方面から優秀な武将たちが加わったのである。

徹底した能力主義でモチベーションを喚起

「長篠合戦図屏風」部分(長浜城歴史博物館蔵)
「長篠合戦図屏風」部分(長浜城歴史博物館蔵)

信長は戦国時代きっての軍事の天才といわれている。いち早く鉄砲隊を編成し、6mもの長槍を考案、また鉄甲船を建造するなど、革新的な軍事技術を導入することで、他者を圧倒する競争優位を獲得してきたイノベーターである。
軍団の編成もまた革新的だった。家臣に領土を与え、その領民を兵にするのが、これまでのやり方だったが、信長は専業の武士団を編成して自分の直轄兵として育て、これを各戦線に投入するという手法をとった。現代でいうならば人材採用を各支社に委ねるのではなく、本社採用スタッフを大幅に増強し、必要に応じて各地に配属するのである。いわゆる「与力(よりき)」というシステムのカスタマイズだ。与力とは大名に加勢する武士団のことを指すが、この持ち駒を充実させることで、戦力のボトムアップを図ったのである。

たとえば、北陸地方の攻略を担当する柴田勝家には、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家、佐久間盛政といった武将が与力としてついた。与力たちは勝家の家臣ではなく、信長の直属の家臣であり、勝家とは対等な関係にある。戦場での働きぶりを評価するのもまた信長であり、めざましい戦功をあげた者はさらに昇格し、大きな仕事をまかされるようになる。逆に戦果のない者に対しては厳しい評価が下される。
こうした徹底した能力主義があったからこそ、農民出身で信長の小間使いからスタートした羽柴秀吉(豊臣秀吉)が引き立てられ、フリーランスのような状態で足利義昭に仕えていた明智光秀が重用されたのである。「戦場でいい働きをすれば自分も城持ち大名になれるかもしれない」という希望は、多くの家臣たちのモチベーションをかきたてたに違いない。その一方で、佐久間信盛のような古くからの重臣が失策を問われ、追放されてしまうという事件もあった。まさにアメとムチを使い分けた人事施策が行われたのである。

「茶入茶碗名器百図 下巻」より初花肩衝 織田信長が家臣に与えた茶器の一つ (国立国会図書館蔵)
「茶入茶碗名器百図 下巻」より
初花肩衝
織田信長が家臣に与えた茶器の一つ
(国立国会図書館蔵)

家臣のモチベーション維持は組織を強くする重要な要素だ。それには功労に報いる褒賞が欠かせない。これまでは新たな領地を与えるのが通例だったが、土地には限界がある。
そこで信長が目を付けたのが茶の湯だ。当時「名物」と呼ばれる茶道具は国ひとつと同等の価値があり、信長はそうした高価な茶道具を京都や堺から買い集めた。家臣たちの間で、茶の湯を推奨し、手柄を立てた武将に貴重な茶道具を与えることで褒美としたのである。また茶の湯を許可制とし、家臣たちが勝手に茶会を開催することを禁じた。秀吉がはじめて茶の湯の開催を許可されたときは涙を流して喜んだという。
このように信長は茶の湯という芸術文化を経済的な価値に変換し、家臣団のモチベーションやロイヤリティを統率する手段として巧みに活用したのである。現代風にいえば、茶の湯をコンテンツとして、まったく新しい経済圏、エコシステムを築いたといえる。信長の家臣団が強さを発揮した裏側には、武将たちの働きにしっかりと報いる、魅力的な褒賞のメカニズムがあったのだ。

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