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【現代に活きるチームの力学 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり】第3回 「豊臣家臣団」〜家族主義とインセンティブ〜

乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。
家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

豊臣秀吉の身内を中心にしたファミリーが基盤

豊臣秀吉像(高台寺蔵)
豊臣秀吉像(高台寺蔵)

豊臣秀吉ほど、家臣団の編成に労を費やした戦国武将はいないだろう。織田信長にしても、徳川家康にしても、親から受け継いだ家臣団があったが、農家に生まれた秀吉には家臣そのものが存在しない。しかも身内と呼べる親族が極めて少なかった。まさにゼロから家臣団を築き上げたといっていい。

信長のもとで頭角をあらわし、足軽大将となった頃の秀吉は、ビジネスに置き換えると、裸一貫で事業を立ち上げた起業家のようなものだ。みずからの才覚で道を拓き、独立を勝ち得たが、いざ会社を経営しようという時点で、信頼できる協力スタッフが数えるほどしかいない。これから大きく会社を成長させるためには、まだまだ優秀な人材が必要だった。しかし戦国の世において、いかに優れた才能があるとしても、縁もゆかりもない部下を側近としておくことは、いつ裏切られるかもわからず不安がつきまとう。側近には、最も信頼できる人物を配置したいと願うのは無理もないことだ。

上:豊臣秀長肖像(春岳院蔵) 下:高台院(ねね)肖像 (名古屋市秀吉清正記念館蔵)
上:豊臣秀長肖像(春岳院蔵)
下:高台院(ねね)肖像
(名古屋市秀吉清正記念館蔵)

秀吉が最も頼りにしていたのは、三歳違いの異母弟(実弟という説もある)の秀長である。秀吉の影に隠れて目立たない存在だった秀長だが、最近の研究では秀吉に勝るとも劣らない豊かな才能をもった人物として評価されている。これが武家ともなると、優秀な弟は自分の主君の座を脅かす存在として排除されることもある。実際、織田信長は次弟の信勝(信行ともいわれる)と苛烈な後継者争いをしたのち、死に追いやっている。親族の少ない秀吉にとっては、血のつながった兄弟は数少ない味方だったのである。
さらに妻のねね(おね)の親族も重用した。武家の出であった彼女は、杉原家、木下家、浅野家といった親類があり、杉原家次や木下家定、浅野長政は秀吉をよく支えた。武家の一門衆をもたない秀吉にとって、初期の段階では彼らが側近の役割を果たしたのである。このほか頼りにしたのは秀吉の姉のともである。子どもに恵まれなかった秀吉とねねは、ともの子どもたちを養子に迎える。秀次や秀勝(小吉)である。その弟の秀保も秀長の養子になっている。また、ねねの兄の子である秀俊も養子にした。のちの小早川秀秋である。

さらに秀吉が行ったのは、いわゆる「子飼い」である。親類から子を預かり、ねねのもとで家族のように育てることで、忠誠心の高い一門衆を構成しようとした。加藤清正、福島正則、加藤嘉明らである。石田三成は親戚ではないが、秀吉が若い頃から目を付け、小姓から育てあげた子飼いの武将である。こうした「ファミリー」を増やすことで、秀吉は家臣団の充実と安定をはかった。人材不足というみずからの弱点を自覚し、初期の段階で積極的に身内の強化を行い、将来の家臣団編成に向けて周到な準備をしていたのである。

有能な人材は秀吉みずからヘッドハンティング

竹中半兵衛銅像
竹中半兵衛銅像

もともと家臣のいない秀吉は、つねに人材を求めていた。人材発掘の目利きでもあり、有能なヘッドハンターだったともいえるだろう。人材獲得におけるもっとも有名なエピソードのひとつが、竹中半兵衛にまつわるものだ。

軍略家としてすでに高い名声を得ていた半兵衛は、美濃の斎藤家の家臣だったが、織田信長の美濃攻めによって斎藤家が没落したのに伴い、隠棲生活を送っていた。信長は秀吉に半兵衛を織田の家臣としてスカウトすることを命じる。秀吉は半兵衛の元を何度も訪れ、勧誘を行うが、なかなか首を縦に振らない。繰り返し誠意と熱意をもって説得した結果、半兵衛は信長の直参の家臣になることは辞退するが、秀吉に仕えることを約束した。1567年(永禄10年)のことである。
後世の記録では、このときの様子を中国の『三国志』で、劉備玄徳が諸葛孔明を軍師として迎え入れるために行った「三顧の礼」になぞらえたものがある。彼を「今孔明」と形容する人もあった。半兵衛はのちに黒田官兵衛とともに「二兵衛」として秀吉の躍進を支える。秀吉はみずからも調略を得意とするだけに、半兵衛の才能を誰よりも理解していたともいえる。だからこそ半兵衛は信長ではなく、秀吉に仕えることを選んだとも考えられる。
もうひとつ代表的なものが、石田三成を見い出したときの「三献茶」といわれる逸話だ。
秀吉が鷹狩りの帰りに近くの寺に寄り、寺小姓に茶を頼んだときのことである。寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶をもってきた。秀吉は一気に飲み干し、もう一杯を所望した。二杯目に出てきたのは、少し熱くしたお茶を半分ほど注いだものだった。さらに三杯目を頼むと、小さめの茶碗に熱い茶が出てきた。最初はぬるめの茶で素早く乾きをいやしてもらい、二杯目からは徐々にお茶を熱くし、お茶の味を楽しんでもらおうという心づかいを高く評価した秀吉は、この寺小姓を召し抱える。これがのちの石田三成である。
1574年(天正2年)あるいは1577年(天正5年)のできごとだったと伝えられる。

テクノクラート technocrat 政治経済や科学技術について高度の専門的知識をもつ行政官・管理者のこと。 石田三成(長浜歴史博物館)
石田三成(長浜歴史博物館)

この逸話は後世の創作という説もあるが、秀吉の人を見る目、三成の賢さをよくあらわしている。三成はその後、五奉行のひとりとして豊臣政権を支えることになる。武勇がもっとも尊重される戦国時代に、三成のような細やかな心づかいをもち、マネジメント能力に秀でた知恵者に目をつけるところに秀吉の非凡な才能をうかがい知ることができる。
家臣団の強さとは武力だけではない。そうした秀吉の認識が三成や大谷吉継のようなテクノクラート的な資質をもった者たちを引き寄せた。こうした「計数の才」をもつ家臣が、各国を攻略するうえでのロジスティクスや統治後の検地などのデータ集積で大きな力を発揮するのである。

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