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人材と戦術が武器

武田家臣団

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暴君化した実の親を国外に追放し、家臣との絆を重視することで、常勝軍団をつくりあげた武田信玄。なぜ武田家臣団は強かったのか。戦国きっての「カリスマ経営者」、信玄の組織運営術にふれる。

武田信玄が率いた
戦国最強といわれる家臣団

武田信玄像(国立国会図書館蔵)
武田信玄像
(国立国会図書館蔵)

もし武田信玄が病で倒れなかったら、天下は武田家臣団が獲っていただろうと考える人は多い。戦国時代にあって、この家臣団の強さは別格だった。武田家といえば「武田二十四将」がよく知られている。信玄の家臣のなかで特に優秀だった者たちだ。そのなかには弟の武田信繁、山県昌景、馬場信春をはじめとする後期の武田四天王、山本勘助などの五名臣、真田昌幸の父と兄にあたる幸隆・信綱の親子も名を連ねている。
徳川家に目を向けると「徳川十六神将」として、徳川幕府の創設に功績のあった者を顕彰している。単純な比較はできないが、徳川の16人に対して、武田は24人(信玄も含むので家臣は23人)と多く、武田家臣団の充実ぶりをうかがわせる。

武田二十四将図(東京国立博物館蔵)
武田二十四将図
(東京国立博物館蔵)

武田家が人材に恵まれていた背景としては、その家柄に負うところが大きい。甲斐武田家は清和源氏の流れをくむ名門であり、鎌倉時代から甲斐国の守護職を務めていた。信玄は第19代当主で、家督を継いだときはすでに多くの家臣がいた。

ビジネスの世界に置き換えると、信玄は伝統ある老舗企業の後継者であり、経営をサポートする経験豊かなスタッフも揃っている。しかし、彼の事業承継を脅かす者がいた。父の信虎である。年をとるにつれ信虎は専横的な政治を行うようになり、嫡男の信玄を廃して弟の信繁に家督を譲ろうとする動きも見せた。こうした信虎のふるまいに、信玄だけでなく、家臣の不満も高まっていた。織田信長も親族間のいさかいがあり、兄弟間で家督を争ったが、武田家の場合は相手が実の父だけに、状況はより深刻といえるだろう。

1541年(天文10年)板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌(おぶとらまさ)、小山田虎満といった重臣たちの支持を得て、信玄は信虎を国外に追放、晴れて当主となる。弟の信繁との関係は良好で、信長のように兄弟間で家督を争うことはなかった。親に不義をはたらいたと見えなくもないが、家臣団には暴走する信虎をよく取り除いてくれたという評価を得た。

現代でもオーナー企業では、親子で経営権を争うことがしばしばある。親の経営手法が時代に取り残されている、子の能力が事業を継がせるレベルに達していないなど、双方の言い分が食い違い、なかなか決着することがない。のちに信玄は嫡男の義信が謀反を企てたとして幽閉している。自分が父にしたことを、今度は実の子から仕掛けられたのである。気を抜くと我が子からも権力の座を狙われる。だからこそ、信玄は血縁に頼らない能力主義を重んじ、人物本位で選んだ家臣団を形成したともいえる。

先代から受け継いだ組織を
スクラップ&ビルド

「人は城 人は石垣 人は堀」。
武田信玄が遺したといわれる有名な一節である。
よい家臣は最強の防御。すなわち、大金を投じて堅牢な城を築かなくても、よい人材が揃えば、事前に危機を回避し、守りを固めることができるという意味が込められている。
実際に信玄は本拠地に城らしい城は築かず、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を城の代わりとした。その一方で、新たに獲得した領地では、まだ自分の支配が行き届いていないため強固な城を築いたという。
ただ、この言葉は後世の創作ではないかという説もある。信玄が活躍した時代の城は、まだ石垣が珍しく、城に大規模な石垣が見られるようになったのは、やや後の時代だからである。だが、信玄が優秀な人材を集めることの大切さを説いていたことは確かなようだ。

武田二十四将図(東京国立博物館蔵)
武田二十四将図(東京国立博物館蔵)

初期の信玄の家臣団は、父の信虎に仕えていた者たちで構成された。暴君といわれた信虎だが、甲斐の国を統一し、武田宗家をまとめた人物であり、有能な家臣が多くいた。しかし、自分に逆らった家臣の家を取り潰しにするなどの処遇を行ったため、せっかくの人材をうまく活用できない状況にあった。
取り潰しにあった家の中には、武田家譜代の名家もあった。信玄はこうした家の再興を試みる。自分が採用した家臣たちの中で特に優秀な者を跡継ぎに任命したのである。馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、春日虎綱(高坂弾正)といった後期の武田四天王たちがその代表だ。彼らはもともと違う家の出身だったが、信玄の辞令によって名跡を継いだのである。経営者との対立によって資本を減らされ、存続が危ぶまれていたグループ会社に、直属の部下たちを社長として派遣したという構図に近い。能力があるのに埋もれていた人材の発掘も行われ、グループ全体のボトムアップにつながるといったシナジー効果も生まれる。こうして信玄はさらに強力な家臣団を形成したのである。

従来のヒューマンリソースを再生しただけなく、信玄は新たな組織もつくり上げた。情報ネットワークを駆使したインテリジェンス部隊である。当主となって間もなく、信玄は透波(すっぱ)と呼ばれる忍びを70人採用し、特に優れた者を板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌といった重臣たちの配下につけ、調略などの活動を行ったという。
のちに信玄はこれを発展させ、「三ツ者」と呼ばれる隠密の集団を組織して、さらに強力な情報網を築く。武田家臣団が仕掛けた巧みな戦術には、こうした先駆的な情報インフラがバックヤードに存在していたのである。

武士道を体現する
「コーポレートカルチャー」

甲陽軍鑑(国立国会図書館蔵)
甲陽軍鑑
(国立国会図書館蔵)

当時の武田家のことを記した『甲陽軍鑑』という軍学書がある。これは後期の武田四天王のひとり、春日虎綱の口述や筆記がもとになったといわれている。またの名を高坂弾正といい、こちらのほうが広く知られているかもしれない。
そもそもは、信玄の亡き後、武田勝頼を補佐する家臣たちに向けて、武田家の理念、歴史、軍学、風習などの知識資産を伝えるために遺したものとされる。
孫子をよく学んだ信玄の戦略や戦術は、徳川家にも大きな影響を与えた。最強とうたわれた武田家の軍学が詳細に記されていることから、江戸時代には武士たちの兵法の教本にもなった。『甲陽軍鑑』は人名や年号の間違い、偽文書と思われる書簡、文学的な創作もあり、信憑性が薄いと考える人もいたが、最近の研究では虚実を正しく見極めれば、信玄の哲学や武田家のリアルな姿を伝える貴重な資料とみなされている。

『甲陽軍鑑』は武士道のエッセンスが描かれた書物ともいわれている。武士道とは何かというような直接的な描写はないが、信玄の言葉を通じて当時の武士の考え方を知ることができる。そこには組織のあり方、人材活用についても興味深い記述がある。
たとえば「よき大将の心得」について信玄はこんなことを語ったという。
戦に勝ったときは、自分の采配が大きな勝因だったとしても、自分の手柄にするのではなく、功績のあった家臣ひとりひとりを褒めることが大切である。そうした大将のもとには自然と優秀な家臣たちが育ってくるものだ。
これは現代のビジネスにも通じるところがある。優秀といわれる経営者ほど、部下に対する思いやりがあり、うまくモチベーションを引き出す術を知っている。プロジェクトの成功を自分の才能によるものと強調したり、部下の手柄を横取りするような上司は、戦国時代にあっても人望を得られないということだろう。

あるいは、こんな言葉も遺されている。原文はこうだ。

ひとむき一つかたぎをこのむは、国持(くにもち)のひぎならん(一向、一つ気質を好むは、国持の非儀ならん)

つまり、同じような方向性の考えをする者や、似たような気質をもった者ばかり好んで集めると、国を経営する大名のためにならないということを意味する。ビジネスに置き換えると、経営者の言動に対して賛同ばかりしたり、さして反論もしない従順な者ばかりでは、議論も生まれず、組織が弱体化していくということになる。権力をもった人間のなかには、まわりを自分のいうことを聞くイエスマンばかりで固める者がいるが、信玄はそうではなかった。多様な人材による多面的な発想が組織を強くすることを熟知していたのである。

カリスマ武将を支えた
勇猛なチャレンジ精神

土佐光起筆 武田信玄画像(山梨県立博物館蔵)※赤備えで使用された武具を身につけた武田信玄
土佐光起筆 武田信玄画像
(山梨県立博物館蔵)
※赤備えで使用された武具を身につけた武田信玄

武田家臣団を特徴づけるケイパビリティは「突破力」といえるだろう。勇猛果敢な武将たちの恐れを知らない戦いぶりは、織田信長や徳川家康といった武将たちからも大いに恐れられた。なかでも「赤備え(あかぞなえ)」の騎馬軍団は勇名を馳せた。のちに徳川軍で井伊直政、大坂の陣の豊臣軍で真田信繁(幸村)が赤備えの軍団を率いるが、元祖は武田軍である。最初に率いたのは初期四天王のひとり、飯富虎昌(おぶとらまさ)で、次に弟の山県昌景に受け継がれた。優れた戦術家である信玄の采配が、武将たちに自信を与え、ミッションを遂行する原動力となった。何よりも、この大将のもとなら命を賭して戦う価値がある。そう思わせる信玄のカリスマ性が家臣団のモチベーションを高めたのである。

『甲陽軍鑑』のなかで信玄はこのような言葉を遺している。
国や家を滅ぼす大将は4タイプあり、第一は馬鹿な大将、第二は利根(利口)すぎる大将、第3は臆病な大将、そして第4は強すぎる大将であるという。強すぎる大将は自信過剰となり、家臣たちの意見を聞かなくなるため、ひいては国を滅ぼすことになるという。
1548年(天文17年)の上田原の戦いで、信玄は初めての大敗を喫する。このとき信玄は連戦連勝で、20代の後半とまだ若く、慢心したことが敗因といわれている。この戦いで初期の四天王だった甘利虎泰、板垣信方といった重臣をはじめ、多くの家臣を失っている。そうした自身の苦い経験が「強すぎる大将」を戒めることにつながったのだろう。

長篠合戦図屏風 部分(長浜市長浜城歴史博物館蔵)
長篠合戦図屏風 部分
(長浜市長浜城歴史博物館蔵)

しかし、この教訓は次代に生かされなかった。1573年(元亀4年)信玄が病で世を去り、武田家は勝頼に受け継がれる。当初は勢いがあった勝頼だったが、1575年(天正3年)長篠の戦いで武田軍は、織田・徳川の連合軍に大敗し、滅亡の道を歩み始める。信玄の時代から仕えていた古参の家臣たちは、開戦に反対を唱えたが、勝頼の側近たちが主戦論を展開し、押し通した。この敗戦によって山県昌景、内藤昌秀、馬場信春といった後期四天王の3人をはじめ、真田信綱、土屋昌続(つちやまさつぐ)、原昌胤(はらまさたね)、三枝昌貞(さいぐさまささだ)といった武田二十四将に名を連ねる重臣たちを失っている。

unifying force

武田家臣団は信玄あっての組織だった。信玄の亡き後は、求心力を失い、急速に力を失っていく。死を予期していた信玄は、自分の死後も武田家の勢力が存続するように、いろいろ手を打っていたが、信玄が意図したようには事が運ばなかったのである。ビジネスの世界でもカリスマ経営者の逝去や退陣によって、企業の競争力が失われていくことがある。企業の強みをいかに組織全体の資産として受け継いでいくか。事業承継の難しさを、改めて考えさせられる武田家臣団である。

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