| TOP | 興味を広げる | 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり | 第4回 |

【現代に活きるチームの力学 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり】第4回 「武田家臣団」〜人材と戦術が武器〜

乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。
家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

武田信玄が率いた戦国最強といわれる家臣団

武田信玄像(国立国会図書館蔵)
武田信玄像
(国立国会図書館蔵)

もし武田信玄が病で倒れなかったら、天下は武田家臣団が獲っていただろうと考える人は多い。戦国時代にあって、この家臣団の強さは別格だった。武田家といえば「武田二十四将」がよく知られている。信玄の家臣のなかで特に優秀だった者たちだ。そのなかには弟の武田信繁、山県昌景、馬場信春をはじめとする後期の武田四天王、山本勘助などの五名臣、真田昌幸の父と兄にあたる幸隆・信綱の親子も名を連ねている。
徳川家に目を向けると「徳川十六神将」として、徳川幕府の創設に功績のあった者を顕彰している。単純な比較はできないが、徳川の16人に対して、武田は24人(信玄も含むので家臣は23人)と多く、武田家臣団の充実ぶりをうかがわせる。

武田二十四将図(東京国立博物館蔵)
武田二十四将図
(東京国立博物館蔵)

武田家が人材に恵まれていた背景としては、その家柄に負うところが大きい。甲斐武田家は清和源氏の流れをくむ名門であり、鎌倉時代から甲斐国の守護職を務めていた。信玄は第19代当主で、家督を継いだときはすでに多くの家臣がいた。

ビジネスの世界に置き換えると、信玄は伝統ある老舗企業の後継者であり、経営をサポートする経験豊かなスタッフも揃っている。しかし、彼の事業承継を脅かす者がいた。父の信虎である。年をとるにつれ信虎は専横的な政治を行うようになり、嫡男の信玄を廃して弟の信繁に家督を譲ろうとする動きも見せた。こうした信虎のふるまいに、信玄だけでなく、家臣の不満も高まっていた。織田信長も親族間のいさかいがあり、兄弟間で家督を争ったが、武田家の場合は相手が実の父だけに、状況はより深刻といえるだろう。

1541年(天文10年)板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌(おぶとらまさ)、小山田虎満といった重臣たちの支持を得て、信玄は信虎を国外に追放、晴れて当主となる。弟の信繁との関係は良好で、信長のように兄弟間で家督を争うことはなかった。親に不義をはたらいたと見えなくもないが、家臣団には暴走する信虎をよく取り除いてくれたという評価を得た。

現代でもオーナー企業では、親子で経営権を争うことがしばしばある。親の経営手法が時代に取り残されている、子の能力が事業を継がせるレベルに達していないなど、双方の言い分が食い違い、なかなか決着することがない。のちに信玄は嫡男の義信が謀反を企てたとして幽閉している。自分が父にしたことを、今度は実の子から仕掛けられたのである。気を抜くと我が子からも権力の座を狙われる。だからこそ、信玄は血縁に頼らない能力主義を重んじ、人物本位で選んだ家臣団を形成したともいえる。

先代から受け継いだ組織をスクラップ&ビルド

「人は城 人は石垣 人は堀」。
武田信玄が遺したといわれる有名な一節である。
よい家臣は最強の防御。すなわち、大金を投じて堅牢な城を築かなくても、よい人材が揃えば、事前に危機を回避し、守りを固めることができるという意味が込められている。
実際に信玄は本拠地に城らしい城は築かず、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を城の代わりとした。その一方で、新たに獲得した領地では、まだ自分の支配が行き届いていないため強固な城を築いたという。
ただ、この言葉は後世の創作ではないかという説もある。信玄が活躍した時代の城は、まだ石垣が珍しく、城に大規模な石垣が見られるようになったのは、やや後の時代だからである。だが、信玄が優秀な人材を集めることの大切さを説いていたことは確かなようだ。

武田二十四将図(東京国立博物館蔵)
武田二十四将図(東京国立博物館蔵)

初期の信玄の家臣団は、父の信虎に仕えていた者たちで構成された。暴君といわれた信虎だが、甲斐の国を統一し、武田宗家をまとめた人物であり、有能な家臣が多くいた。しかし、自分に逆らった家臣の家を取り潰しにするなどの処遇を行ったため、せっかくの人材をうまく活用できない状況にあった。
取り潰しにあった家の中には、武田家譜代の名家もあった。信玄はこうした家の再興を試みる。自分が採用した家臣たちの中で特に優秀な者を跡継ぎに任命したのである。馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、春日虎綱(高坂弾正)といった後期の武田四天王たちがその代表だ。彼らはもともと違う家の出身だったが、信玄の辞令によって名跡を継いだのである。経営者との対立によって資本を減らされ、存続が危ぶまれていたグループ会社に、直属の部下たちを社長として派遣したという構図に近い。能力があるのに埋もれていた人材の発掘も行われ、グループ全体のボトムアップにつながるといったシナジー効果も生まれる。こうして信玄はさらに強力な家臣団を形成したのである。

従来のヒューマンリソースを再生しただけなく、信玄は新たな組織もつくり上げた。情報ネットワークを駆使したインテリジェンス部隊である。当主となって間もなく、信玄は透波(すっぱ)と呼ばれる忍びを70人採用し、特に優れた者を板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌といった重臣たちの配下につけ、調略などの活動を行ったという。
のちに信玄はこれを発展させ、「三ツ者」と呼ばれる隠密の集団を組織して、さらに強力な情報網を築く。武田家臣団が仕掛けた巧みな戦術には、こうした先駆的な情報インフラがバックヤードに存在していたのである。

  一覧へ戻る 1   2 次のページへ  

「興味を広げる -Etc.-」カテゴリの他のコンテンツも見る

「興味を広げる -Etc.- 」
カテゴリの他のコンテンツも見る

  • 知られざるヒット商品のオモテとウラ
  • SDGsでイノベーション サステナブルな新世界
  • 三国志から学ぶ人財戦略
  • ミレニアル世代のトリセツ
  • PROWISE STYLE GOLF
  • 城のストラテジー
  • 城のストラテジーリターンズ
  • 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり
※本ページの内容は、取材または原稿制作当時のものです。
スマートフォンからもご覧いただけます
プロワイズウェブの歴史

是非フォローを
お願いいたします!

プロワイズ事務局 Twitterアカウントへのご案内 プロワイズ事務局 Instagramアカウントへのご案内