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【現代に活きるチームの力学 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり】第6回 「真田家臣団」〜情報力でアドバンテージ〜

乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。
家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

小領主の大名、真田昌幸を支えた情報戦略

真田父子犬伏密談図(上田市立博物館蔵)右は真田昌幸、相向かいはその長男信之、その間で下を向いてじっと聞いているのが次男幸村。
真田父子犬伏密談図(上田市立博物館蔵)右は真田昌幸、相向かいはその長男信之、その間で下を向いてじっと聞いているのが次男幸村。

真田家といえば、知略と武勇の一族という印象が強い。父の真田昌幸と長男の信幸(信之)、次男の信繁(幸村)の親子が率いる家臣団の物語は、さまざまな戦国武将のなかでもひときわ異彩を放っている。
真田家は大名として独立する前は、もともと武田家の家臣であった。昌幸の父の真田幸綱(幸隆)が武田信玄に重用され、昌幸の兄の信綱、昌輝も将来が嘱望される武将だった。しかしながら、兄の二人は武田と織田が戦った長篠の戦いで命を落としてしまう。1575年(天正3年)のことである。
三男の昌幸は武田家の名門、武藤家の養子として頭角をあらわしていたが、兄の死によって名を元に戻し、真田家の当主となったのである。武田の滅亡後は織田信長につくが、1582年(天正10年)の本能寺の変のあとは、上杉、徳川、北条といった有力大名たちと渡り合い、最終的には豊臣秀吉につき、独立した大名としての地位を確保するのである。

地図

真田昌幸が手にした領地は、現在の長野県上田市の周辺と群馬県の北部で、上杉、徳川、北条に比べると小国である。周辺の有力大名に滅ぼされないようにするには強力な武器がいる。ビジネス社会も同様で、中小の企業が大企業と同じ土俵のなかで戦うためには、技術力や開発力など突出したアドバンテージが必要だ。いわば競争力の源泉である。真田昌幸の場合、それは調略だった。
真田家の家臣団は、一門衆、普代衆のほか、信濃衆、吾妻(あがつま)衆、沼田衆、旧武田家臣で構成されていた。組織上は明らかにされていないが、そこには「透波(すっぱ)」といわれる忍びの者も潜んでいる。真田家はこの「透波」を活用した調略を得意とした。実際、難攻不落といわれる城を少ない手勢で陥落させるなど、武田の家臣時代の真田家は、正攻法ではありえない武功を数多く立ててきた。のちに息子の信繁が大坂の陣でめざましい活躍をしたこともあり、世の中では真田家は忍者の使い手という伝承が広まっていく。

そうしたイメージを決定づけたのが明治から大正にかけて流行した立川文庫(たつかわぶんこ)の『真田十勇士』だ。猿飛佐助、霧隠才蔵、筧十蔵、海野六郎、三好清海、三好伊三、穴山小助、由利鎌之助、根津甚八、望月六郎といった真田家の「透波」や武芸者が活躍する物語は、当時の人々の間で大変な人気を博した。彼らは実在の人物ではなく、物語も多くはフィクションだが、それぞれモデルとなった人がいたといわれる。現代でも池波正太郎氏の『真田太平記』では真田家と「透波」の深い関係が描かれている。
諸説はあるものの、真田家臣団と「透波」は切っても切れない関係にあるといえるだろう。

真田家が継承した特殊工作ネットワーク

現代のビジネスにおいて情報の重要さはいうまでもないが、戦国の世にもおいても、それは変わらない。通信インフラなどない当時においては、人的ネットワークが情報網となる。真田家に限らず、多くの有力大名が忍者集団を組織し、独自に情報を収集していた。
そもそも真田家が仕えていた武田信玄が「三ツ者」という隠密集団を組織し、敵を撹乱していた忍者の使い手であった。信玄が真田家の人間を重用した要因として、「透波」を使う能力の高さがあったかもしれない。

洛中洛外図屏風(舟木本)より歩き巫女部分(東京国立博物館蔵)
洛中洛外図屏風(舟木本)より
歩き巫女部分(東京国立博物館蔵)

真田家がなぜ「透波」の起用に長けていたのか。それは真田家のルーツにあるといわれる。平安期の清和天皇の子を祖とする滋野氏という一族がある。信州に定着して、古くから「御牧(みまき)」と呼ばれる朝廷の軍馬用の牧場の管理をしていたという。この一族には「歩き巫女」と呼ばれる人たちを配下に置いていた歴史がある。
「歩き巫女」とは諸国を遍歴して祈祷や「口寄せ」といわれる降霊術を行う。こうした人たちのグループが、のちの情報ネットワークに発展したという説もある。滋野氏は、海野氏、根津氏、望月氏の三家に分かれた。真田家はその海野氏の流れをくむといわれ、昌幸の父の幸綱はその一族を統率するリーダーだった。海野氏は加持祈祷や呪術に通じていたとされ、幸綱は山伏と呼ばれる修験者を忍びとしてよく活用したという。根津氏は日本最大の鷹匠流派「根津・諏訪流鷹術」の祖であり、武田信玄にも重用された。望月氏は甲賀に支流をもち、甲賀の忍者を束ねる役割をもっていた。望月千代女(ちよめ/ちよじょ)という人物が女忍集団である「くのいち」を組織し、武田信玄の傘下で活動していたという。

真田家は長篠の戦いによる武田家の滅亡に伴い、無形の遺産を継承したともいわれている。その一つが「甲陽流」といわれる武術だ。武田四天王の一人、馬場信春が甲州流兵法から発展させたものといわれている。
真田の領土だった吾妻地方にはいまも甲陽流の武術が継承されている。そのなかには忍者の奥義と思われる技も少なくない。この地方を治めていたのが、真田家臣団の重鎮だった出浦昌相(いでうらまさすけ)である。彼は武田家に仕えたのち、森長可(もりながよし)を経て、真田昌幸、信幸に仕える。江戸時代後期に、真田家が治める松代藩の家老、河原綱徳が記した『本藩名士小伝』という書物がある。そのなかで昌相は、武田時代より「透波」の頭領であり、真田家でも「透波」を率いたと記されている。実際の昌相は真田家の家老で忍者ではないと考える人は多いが、真相は定かではない。他にも禰津信政、横谷幸重といった家臣が「透波」の頭領として有力視されている。
戦国の世にあって、他の国でも起用していた忍者集団であるが、真田家臣団の場合は真偽のほどはともかく、特に豊富なエピソードが残されている。

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