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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー】第10回 徳川幕府の中枢となった巨城 江戸城

なぜ、そこに城があるのか。なぜ、このような構造なのか。軍事要塞である城には、城主の知恵や思惑が潜んでいる。その戦略の立て方は現代のビジネスにも通底することが多い。主要な建造物が現存する名城を中心に「戦う城」の実力に迫る。

◎所在地:東京都千代田区千代田 ◎主な築城:長禄元年(1457年)太田道灌 慶長8年(1603年)徳川家康

徳川家康の関東移封はフロンティア市場の開拓

皇居(旧:江戸城)全景の画像
皇居(旧:江戸城)全景

これまで9回にわたって、国宝五城をはじめ、日本を代表する城について掘り下げてきた。だが、日本最大の城でありながら、まだ取り上げていない城がある。「江戸城」である。現在は皇居となり、残された建造物も少なく、当時の姿はなかなか想起しにくい。しかし、総面積では大坂城、名古屋城をはるかにしのぐ、世界最大規模の城郭である。天守や本丸があった現在の皇居東御苑を歩くだけで、そのスケールの大きさを実感できる。

徳川家康の所領の変化(上が小田原制圧前、下が後)の画像
徳川家康の所領の変化(上が小田原制圧前、下が後)

もともとの江戸城は太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏の時代も江戸は寒村にすぎなかった。現在の日比谷あたりまで海水が入り込む湿地帯のため農耕には不向きで、人口も少なく、江戸城は荒廃していた。
転機となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐である。この戦いで最大級の功績をあげた徳川家康は、北条氏の所領をそっくりそのまま秀吉から与えられる。伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の7国である。だが、これまでの領地、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5国を失う。前の領地は150万石、新たな関東の領地は250万石。石高は増えても慣れ親しんだ領地を離れることは、家康にとって大きな痛手だった。報奨のかたちはとっているが、関東移封は家康を大坂から遠ざけるための秀吉の計略である。

徳川家康像(堺市博物館 蔵)の画像
徳川家康像(堺市博物館 蔵)

関東の本拠地として江戸を勧めたのも秀吉だとされる。大都市として理想的な条件を備えた大坂と江戸の地形は共通点が多いというのがその理由だ。大坂が瀬戸内海の最深部にあるように、江戸も湾岸の深部にあった。大坂が淀川の河口にあるのに対して、江戸は隅田川の河口にあり、背後に大きな平野が広がっていた。日本各地の地理を把握し、なおかつ100もの城を築いた秀吉は、土木工事のエキスパートでもあり、江戸が多大なポテンシャルを秘めた土地であることを見抜いていた。ただし、インフラの整備には膨大な費用と労力、そして長大な時間を必要とする。
この江戸の開発を自らの子飼いの大名ではなく、ライバルの家康にまかせたのが秀吉の老獪なところである。家康の置かれた状況を現代のビジネスに置き換えると、表面上は栄転でも実質的には左遷も同然で、未開拓市場の開発という難易度の高いミッションも課せられている。家康としては秀吉の推す江戸を無視することはできない。このピンチに家康はどう立ち向かったのか。

江戸城のプロジェクトは「ブルーオーシャン戦略」

家康が江戸に移ったのは天正18年(1590年)のことだった。家康はすぐに大きな城を築こうとはせず、まずインフラ整備に着手した。海水が入り込む低湿地帯であった江戸を耕作に適した地に変えていく。なかでも大規模な工事となったのが、文禄3年(1594年)に開始した「利根川東遷」である。当時の利根川は江戸を流れていて、しばしば大洪水を起こしていた。そこで利根川の流れを銚子に注ぐように変える治水工事を行ったのである。工事がすべて完了したのは承応3年(1654年)、四代将軍・家綱の時代だった。60年におよぶ大事業である。この工事のおかげで、新田開発も飛躍的に進み、関東平野は日本最大の穀倉地帯となった。

利根川東遷の過程 左から5000年前、1000年前、東遷が完成したときの利根川(利根川上流河川事務所ホームページ 蔵)の画像
利根川東遷の過程 左から5000年前、1000年前、東遷が完成したときの利根川
(利根川上流河川事務所ホームページ 蔵)
加藤清正(本妙寺蔵 熊本県立博物館 撮影)の画像藤堂高虎(伊賀文化産業協会 蔵)の画像
加藤清正(本妙寺蔵 熊本県立博物館 撮影)
藤堂高虎(伊賀文化産業協会 蔵)

徳川家康が江戸城の拡張に着手するのは、征夷大将軍となった慶長8年(1603年)である。江戸に本拠を構えてから、すでに10年以上の歳月がたっている。家康はこの時機を待っていたのかもしれない。将軍ともなれば、自分の好きなように城を築けるからである。江戸城は全国の大名に協力を要請する天下普請(てんかぶしん)によって建造された。加藤清正、藤堂高虎といった築城の名手をはじめ、すぐれた築城技術をもった前田、細川、池田、毛利、黒田など名だたる大名たちが参加した。この工事は三代将軍の家光の代まで続くことになる。
天下普請による築城は費用も人材も資材もすべて大名たちの持ち出しであり、経済的に大きな負担となった。徳川に刃向かう可能性のある豊臣恩顧の大名たちの力を削ぐうえでも有効な策であり、この築城の方法はのちの名古屋城にも踏襲されるのである。

経営には「ブルーオーシャン戦略」という考え方がある。血を流すような競争の激しい既存市場「レッドオーシャン(赤い海)」よりも、競争の少ない未開拓市場「ブルーオーシャン(青い海)」を狙うべきという理論だ。家康が江戸で行ったプロジェクトは、この「ブルーオーシャン戦略」に近い。家康は秀吉の目の届かない関東で誰にも邪魔されることなく、新田開発や市場育成を行い、じっくりと力を蓄えていく。文禄元年(1592年)にはじまる秀吉の朝鮮出兵の際は地理的に遠いこともあり、参加が免除された。これも大きなアドバンテージとなった。
家康の事業は一代で終わるものではなく、二代目の秀忠、三代目の家光へと受け継がれていく。まるで都市計画のデベロッパーのように、長期的なビジョンや事業計画を実現させた。治水を行い、農地を広げ、人口を増やし、市場を拡大するなど、その功績は計り知れない。家康は江戸のみならず、日本経済を大きく成長させた、空前絶後のカリスマ経営者だったといえる。

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