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琵琶湖の水利を生かした美城

彦根城

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琵琶湖を背景にしてそびえる国宝、彦根城。かつては豊臣秀頼を封じ込める大坂包囲網の重要拠点であった。工期短縮のために周囲の城のパーツを再利用したという秘話をもつ「リサイクルの城」。幕末までずっと城主であり続けた井伊家のマネジメント能力の高さを探る。

◎所在地:滋賀県彦根市金亀 ◎主な築城:慶長9年(1604年)井伊直継・直孝

大坂包囲網の要となる
徳川のフラッグシップ

彦根城(彦根観光協会 提供)の画像
彦根城(彦根観光協会 提供)
井伊直政(彦根観光協会 提供)の画像
井伊直政(彦根観光協会 提供)

琵琶湖を臨む金亀山(こんきやま)にそびえる彦根城。国宝五城のひとつであり、保存状態がよいことから世界遺産の候補にも挙げられてきた美しい城である。
彦根城が築城されたのは関ヶ原の合戦のあとのことだ。徳川家康が石田三成の率いる西軍を破り、三成の居城だった佐和山城(現在の彦根市)が徳川のものとなる。佐和山城のある琵琶湖の東岸は、中山道と北陸道が合流する交通の要衝である。家康は大坂の豊臣秀頼を封じる「大坂包囲網」の要とすべく、このエリアの整備を特に重視した。ここを治めるには武勇にすぐれたものでなければ務まらない。そう考えた家康が城主に任命したのは「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将、徳川家臣団の筆頭、井伊直政であった。直政の軍が甲斐の武田氏由来の赤い甲冑「赤備え」を身につけていたことからその異名がついた。真田の赤備えもよく知られているが、大坂の陣ではこれら赤備え同士が相対することになる。井伊直政といえば「徳川四天王」のひとりであり、家康に対する忠義を重んじた男である。秀吉主催の茶会で徳川を出奔して秀吉についた石川数正がいるのを見て、その場で数正を叱責し、同席を固辞したという。大坂城にプレッシャーをかけるにはまたとない人物だったといえるだろう。

井伊直政は佐和山城が、宿敵の石田三成の居城だったことを嫌い、別の場所に新たな城を築きたいと考えていた。関ヶ原の合戦で受けた傷がもとで築城前に直政は逝去するが、嫡子の直継(なおつぐ)が遺志を継承、琵琶湖岸により近い金亀山に彦根城を築く工事を開始する。病弱だった直継は家督を弟の直孝に譲り、二代目城主となった直孝が城を完成させる。徳川にとってはフラッグシップともいうべき重要な城であった。
築城に際しては「できる限り早く。できる限り安く」という条件が徳川より課せられていた。たとえば、同じ3層3階の天守である伊予の宇和島城をみてみる。築城の名手、藤堂高虎が既存の城を大幅に改修したもので、着工から完成までに約6年を要している。彦根城の天守は着工から完成まで3年。条件が異なるため単純に比較はできないが、通常よりはかなり早いスピードといえる。いかなる方法で課題を解決したのか。そのソリューションを知るとき、彦根城はいっそう興味深い対象となる。

厳しい条件をクリアした
「リサイクルの城」

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彦根城の築城に着手したのは、江戸幕府がはじまった翌年の慶長9年(1604年)である。徳川の統治を強固にするためにも、いち早く新しい城を築きたいが予算に限りがあった。工期短縮とコスト節約でクオリティの高い城を築くのはいささかハードルが高いが、それが彦根城に課せられたミッションだったのである。
徳川家康は彦根城の築城を幕府管理のもと行う天下普請とし、彦根周辺の7国の12大名をサポートに加えた。そして「工期短縮とコスト節約」を実現するために採択された方法が、既存の城のパーツの移築である。「リサイクルの城」- それが彦根城の設計コンセプトだったのだ。
別の城の一部を移築する工法は当時では珍しくなかった。だが、彦根城ほど移築の多い城は稀有である。大津城の天守、小谷城の三重櫓、長浜城の天秤櫓、佐和山城にあったとされる太鼓門櫓など、近江国内のさまざまな城のパーツが移築されたといわれている。特に注目すべきは大津城から移築した天守である。もとは5層だったものを移築の際に3層に造り直したといわれている。パーツを拝借した城は取り壊しとなった。

徳川秀忠(松平西福寺 蔵)の画像
徳川秀忠(松平西福寺 蔵)

徳川家康は無数にある各地の城の数を減らして、要所にのみ城を置くという構想を抱いていた。現代風にいうと「選択と集中」である。乱立した支社や支店を整理・統合して、よりスリムで筋肉質のネットワークを構築しようと考えたのである。二代将軍、徳川秀忠が発した武家諸法度にある「一国一城令」はその構想を具現化したものだ。この法律により大名は城をひとつしか持てないようになる。彦根城はそうした新しい統治のシステムを具現化するモデルケースでもあったといえる。

再利用パーツを多くすることで、工期は飛躍的に短縮できた。コストも大幅に節約できたことだろう。問題は外観のクオリティだ。いかにも寄せ集めのような見栄えでは徳川の威厳に関わる。大坂に睨みをきかせる城にはなりえない。彦根城は小ぶりながら繊細な意匠が美しく調和した風雅な佇まいの城として完成し、この難題を見事にクリアした。優美な装飾を施した超然とした姿には、複数の城のパーツを組み合わせた痕跡は微塵も感じさせない。事情を知らない人に、この城がリサイクルで成り立っていることを伝えても信じてくれないに違いない。
リユースやリサイクルという言葉も概念もない時代であるが、現代の環境マネジメントの視点からみても有用な技術と知恵がすでに確立されていたのである。建造物そのものの歴史的価値はもとより、彦根城を組み上げたプロセスやテクノロジーにも知的資産を宿しているといえるだろう。

戦国の城と徳川の城の高度なハイブリッド

彦根城は城の分類としては平山城※(ひらやまじろ)だが、琵琶湖の水利を生かした水城(みずじろ)としての性能をあわせもっている。城はリサイクルでも、縄張(なわばり)と呼ばれる城郭全体の設計は独創的な戦略に基づくオリジナルである。金亀山の地形を利用した敵を寄せつけない設計で、なおかつ琵琶湖を天然の水堀として活用しているのである。

彦根城(彦根観光協会 提供)の画像
彦根城(彦根観光協会 提供)

彦根城をどこに築くかを井伊家が徳川家康に相談したところ、金亀山に築くことを強く勧められたといわれる。佐和山城よりも琵琶湖に近く、その水利を活用できるアドバンテージを家康は計算していた。しばらくして彦根藩は京都守護の役割を担うようになる。京都御所に異変があれば、船で琵琶湖を渡り、すばやく駆けつけることができる。三重の堀で琵琶湖につながっている彦根城ならではの任務である。家康は目先の戦のことだけでなく、将来の統治のことも考えて、長期的な視野のもと彦根城のロケーションを選定していたと思われる。彦根城を屈指の名城として世に残したのは城主である井伊家の功績であるが、彦根城の存在価値を明確に想定したトップの経営判断も的確であった。

天秤櫓(彦根観光協会 提供)の画像
天秤櫓(彦根観光協会 提供)

彦根城は近世城郭のスマートな外観をもちながら、戦国時代の山城のような戦闘能力を秘めているといわれる。この城に侵入するのはまず不可能に近い。門に行き着くまでに、さまざまな櫓や石垣の上から鉄砲や矢の攻撃を受ける。もし突破できたとしても、天守に至る道のりにはさまざまな仕掛けが用意されている。たとえば「登り石垣」である。登り石垣は秀吉の朝鮮出兵の際に用いられたもので、山道の左右を石垣にすることで、敵の動きを封じる。さらに天守の直前にある天秤櫓(てんびんやぐら)は戦になると橋が落とされる。こうなると敵は深く切り立った堀切の石垣を登らないと天守には到達できない。

天守はいかにも優美な佇まいである。花頭窓(かとうまど)、唐破風(からはふ)、入母屋破風(いりもやはふ)、切妻破風(きりつまはふ)など凝った装飾が施されている。最上階には高欄(こうらん)もある。このように外観からは攻撃的な印象をほとんど感じさせない。しかし城内には外から見えない「隠し狭間」が数多くある。鉄砲を撃つための穴が板で塞がれている。戦のときはこれを突き破り、鉄砲や弓矢で攻撃するのである。美しい白漆喰の壁に次々と穴があき、黒光りする銃口が突き出される。優美な城が牙をむく瞬間だ。敵はさぞかし肝を冷やすに違いない。だが、隠し狭間が実際に使われることはなかった。彦根城はおよそ400年にわたり、築城時の姿を守り続けたのである。

※平山城:小高い山や丘に築かれた城。これに対し、高い山に築かれた城を「山城(やまじろ)」、平地に築かれた城を「平城(ひらじろ)」という。

ずっと城主だった井伊家の
コーポレートカルチャー

彦根城博物館(彦根観光協会 提供)の画像
彦根城博物館(彦根観光協会 提供)

彦根城の主は、一度も変わることなく井伊家が務め続けた。配置替えが相次いだ江戸時代のなかでは極めて異例といえる。徳川の井伊家に対する信頼が厚かったこともあるが、井伊家の行政手腕の巧みさ、危機管理能力の高さに寄与するところも大きい。
城内にはかつて井伊家の城主が住んでいた表御殿を復元した彦根城博物館がある。館内には十一代藩主の井伊直中が造らせた能舞台や数多くの宝物や資料が展示されている。さらには下屋敷である楽々園やその庭園である玄宮園も現存している。武芸はもとより、多くの大老を輩出し、学問や芸能にも精通していた井伊家の藩風、現代でいうところのコーポレートカルチャーを深く知ることができる。初代藩主の井伊直政は武勇がクローズアップされがちだが、政治や外交にも卓越した才能をもった人だった。黒田官兵衛など豊臣側の重臣を東軍に引き入れたのは直政の功績が大きかったといわれている。

玄宮園(彦根観光協会 提供)の画像
玄宮園(彦根観光協会 提供)

2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、井伊直政の母の物語である。女性でありながら直虎と名のり、城主を務め、戦国を生き抜いた女性の生涯を描く。井伊家というと初代の直政と幕末の直弼のほかはあまり知られていないだけに物語がどう展開するのか興味深い。
知恵を駆使して築城された彦根城はもちろん、300年にわたって藩主の座を守り続けてきた井伊家について知ることも、企業経営やマネジメントのヒントになることだろう。

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