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築城の名手による難攻不落の城

熊本城

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地震の被害から修復の途上にある熊本城。この城を築いた加藤清正は築城の名手であり、農業土木の名手でもあった。築城とともに行った治水・利水などのインフラ整備は、400年の時を超えて受け継がれている。武闘派の印象が強い清正だが、じつは卓越した経営者でもあった。

◎所在地:熊本県熊本市中央区本丸 ◎主な築城:慶長6年(1601年)加藤清正

加藤清正の「ケーパビリティ」を結集した
熊本城

熊本城(熊本市熊本市観光振興課 提供)の画像
熊本城(熊本市熊本市観光振興課 提供)

2016年4月の熊本地震で石垣が崩落するなど大きな被害にあった熊本城。完全な修復には長い歳月を要するが、2019年までには大天守を再建する計画だという。修復の過程も公開されるとのことで、日本屈指の名城が復活していく経過を見守っていきたい。
熊本城跡は国指定の特別史跡である。大天守・小天守は西南戦争のとき原因不明の出火で焼失してしまい、1960年に外観が復元されたものだ。櫓・城門・塀など13の建造物は築城時の姿がほぼそのまま残り、国の重要文化財に指定されている。なかでも宇土櫓(うとやぐら)は3層5階の大きなもので大天守、小天守に次ぐ第三の天守と呼ばれる。高さは19mあり、これは彦根城や松山城とほぼ同じ高さである。

宇土櫓(熊本市熊本市観光振興課 提供)の画像
宇土櫓(熊本市熊本市観光振興課 提供)

熊本城を築いたのは、藤堂高虎と並び、築城の名手とされた加藤清正である。江戸時代の儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の書物では、この二人が関わった城のなかで、熊本城は名古屋城、大坂城とともに三名城と記されている。ちなみに第1回にとりあげた姫路城は池田輝政によるものなので含まれていないが、熊本城、名古屋城、姫路城を三名城とする人もいる。
現代においても「行ってよかった!日本の城ランキング(トリップアドバイザー調べ)」で3年連続1位に輝くなど、熊本城は高い評価を得ている。

加藤清正公(本妙寺所蔵 熊本県立博物館撮影)の画像
加藤清正公(本妙寺所蔵 熊本県立博物館撮影)

加藤清正が城づくりの名手となったのは、豊臣秀吉の影響が大きい。清正は秀吉の遠戚にあたり、幼少時から秀吉の小姓として仕える。秀吉が長浜城を築いた頃から天下統一に至るまで、その城づくりを間近で見てきた。清正は秀吉の築城術をベースにしつつ、みずからが戦で得た体験を活かした独自の城づくりを習得する。先進的な建築テクノロジーや土木工学を駆使する知力、新たな仕掛けを考案する創造力、第一級の職工や絵師を活用するプロデュース力、さらには城下町を整備して経済を発展させるマネジメント力。熊本城はそうした清正の多彩な能力を集大成した城なのだ。

城づくりがインフラ整備と経済成長に
つながる

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加藤清正の前に肥後の隈本(熊本)城主だったのは佐々成政(さっさなりまさ)であった。成政は強引に検地を行おうとしたところ、肥後の国人たちの抵抗にあい、大規模な一揆が起こった。この失政の責任をとり、成政は切腹を命じられる。かわりに肥後をまかされたのが加藤清正と小西行長で、肥後の北半分を清正、南半分を行長が治めることになった。天正16年(1588年)のことである。関ヶ原の合戦のあとは、南半分も清正の領地となり、清正は肥後54万石の大名となった。

佐々成政から引き継いだ隈本城は防御が十分とはいえず、清正は新たに茶臼山を中心とする新たな城を計画する。築城に着手したのは慶長6年(1601年)で、それから7年をかけて現在の熊本城を完成させる。このとき清正は地名を隈本から熊本に改める。隈には「畏まる」という字が含まれ、武運を重んじる国柄に合わないというのが理由だ。城下町の整備も大々的に行われ、さらには肥後の特産品をもとに海外との貿易も行った。これらの施策によって肥後の経済は大いに発展したという。

築城の前から並行して行ったのが治水・利水工事である。川の流れを変えたり、堤防を築くことで氾濫を抑え、また農業用水を整備して農地を拡大するなど、さまざまなインフラの整備をはかった。農業土木の工事を行う際には、清正は作業に駆り出した民たちをねぎらうことを忘れず、大きな人望を集めたという。
これらのインフラ基盤は当時の人々の暮らしを向上させただけでなく、現代の人々にも恩恵を与えている。熊本の人たちが清正のことを「清正公(せいしょこ)さん」と呼び敬愛しているのは、業績の数々が「せいしょこさんのさたこつ(清正公のなさったこと)」として広く知られているためである。400年以上も前に造ったものが、変わることなくベネフィットを提供し続けている。新たなビジネスを構想するうえで、熊本城は示唆に富んだ事例といえるだろう。

西南戦争で実証された
難攻不落のハイスペック

戦いの城としてみたとき、熊本城は徹底抗戦に備えた「サバイバルの城」といえる。加藤清正という戦の厳しさを知り尽くした第一級の武将の戦略が、熊本城には息づいている。
敵が攻めてきたらどんなリスクが発生するかを考え、周到に対応策を準備したのがこの城である。リスクヘッジや危機管理のケーススタディとしても興味深い。

熊本城石垣(熊本市熊本市観光振興課 提供)の画像
熊本城石垣(熊本市熊本市観光振興課 提供)

たとえば石垣である。10mから20mの高さの石垣が幾重にも張りめぐらされている。特徴的なのはその形状だ。「扇の勾配」と呼ばれる独特のカーブを描き、上に行くほど角度が急になり、登ることができない。はしごをかけても上まで届かず、侵入はまず不可能だ。いわゆる「武者返し(むしゃがえし)」である。この構造は文禄・慶長の役のときに着想を得たといわれ、これまでの石垣の概念を大きく変えた。

さらに注目すべきは、籠城で食糧が枯渇したときの対策が施されていることだ。本丸御殿の大広間の畳には芋茎(ずいき)を、城内の土壁には干瓢(かんぴょう)を仕込み、食糧が不足したときには、これらを食べて飢えをしのぐことを想定している。また籠城には水が不可欠との判断から、城内は井戸が120カ所もある。これらの井戸のほとんどは今も実際に使うことができるという。また敵の目にふれず城内を行き来できる地下通路まである。

昭君の間と天井画(熊本市熊本市観光振興課 提供)の画像
昭君の間と天井画(熊本市熊本市観光振興課 提供)

本丸御殿が2009年に木造で復元されたが、そこに「昭君之間(しょうくんのま)」というひときわ豪華な内装が施された一室がある。この部屋は豊臣秀吉の遺児である秀頼を、かくまうために造ったとされる。関ヶ原の合戦では徳川についた清正であるが、豊臣家に対する忠誠を忘れることはなかった。豊臣家が危機になったときは秀頼を守り、徳川と徹底抗戦する覚悟もあったという。慶長16年(1611年)、清正はこの世を去る。そして、その4年後の大坂の陣で豊臣家は滅びる。

江戸時代に熊本城が戦の舞台になることはなかった。しかし明治10年(1877年)、熊本城は西南戦争の舞台となる。当時、熊本城には鎮台と呼ばれる官軍の師団が置かれていたため、西郷隆盛が率いる薩軍(さつぐん)の攻撃の標的となったのである。原因不明の火災によって大天守をはじめさまざまな建造物を失うが、官軍は約50日におよぶ籠城の末、薩軍を退けた。清正の築いた石垣をどうしても突破できなかったといわれる。このとき、西郷隆盛は「官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」という言葉を残したと伝えられている。築城時から難攻不落といわれた熊本城は、その鉄壁ぶりを実証したのである。

清正のレガシーを尊重した
細川氏のガバナンス

細川 忠利(PIXTA)の画像
細川 忠利(PIXTA)

加藤清正の亡きあとは、三男の忠広(ただひろ)が継ぐが、まだ11歳だったため家臣の合議制で藩政が行われる。しかし失政が続き、寛永9年(1632年)、加藤家は二代目で改易となってしまった。かわりに肥後熊本藩主となったのが細川忠利(ただとし)である。

現代のビジネス社会では、経営者が交代すると前任者の企業文化を嫌い、経営方針を変えたり、部下をそっくり入れ替えたりすることがあるが忠利は違った。肥後に着くなり、清正の菩提寺に使者を送って礼をつくし、さらには熊本城の大手門の前で「清正公の城をお預かりします」と言ってから入城したという。加藤家の遺臣を家臣として迎え入れ、地元の有力者を重用したと伝えられる。城を改修するときも、加藤家の家紋入りの瓦を残すなどの配慮を見せている。熊本城のトップ交代は礼節をもって行われたのである。

熊本城はこれまで何度か地震の被害にあってきた。寛永2年(1625年)の大地震で熊本城は壊滅的な被害を受けたが、藩の財政が切迫し、修理ができないまま放置されていた。細川忠利が城主として着任したとき、この惨状に心を傷め、すぐに城の修理を命じたという。工事は石垣27カ所、櫓28カ所など80カ所以上に及んだ。修理の途中で江戸城の普請があり、資金が足りなく修理を中断せざるを得ないときもあったが、それでもあきらめずに修理を続けた。
他の藩では破損した建造物を廃棄するところも少なくなかった。しかし細川家は被害にあうたび、その都度、修理を行ってきたのである。「城は国の宝である」というのが細川家の考えだった。現代のビジネスにおいても、コスト削減のために人員のリストラや施設の閉鎖、事業の圧縮などを迫られる場合がある。何をあきらめ、何を残すかというのはむずかしい選択だが、細川氏は清正の遺産である「熊本のシンボル」を重視したのだ。

熊本城は今回の地震で大きな被害を受けたが、その価値が失われることはない。400年以上にわたり幾多の困難を乗り越えてきた、時の重みがそこに存在している。最強の城とうたわれたその雄姿を完全に取り戻すまで、変わらぬ支援を続けたい。

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