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高石垣を誇る藤堂高虎の城

伊賀上野城

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壮大な高石垣が残る伊賀上野城。現在の天守は模擬天守だが、大坂城と双璧をなす高石垣を見るだけで、この城が戦略上、極めて重要な役割をもっていたことが想像できる。城主は築城の名手とうたわれた藤堂高虎。彼は徳川家康から重要なミッションを与えられていたといわれる。

◎所在地:三重県伊賀市上野丸之内
◎主な築城:天正13年(1585年)筒井定次 慶長16年(1611年)藤堂高虎

築城のエキスパートにして戦国の転職王、
藤堂高虎

伊賀上野城(伊賀文化産業協会 提供)の画像
伊賀上野城(伊賀文化産業協会 提供)

伊賀上野城は未完成の城である。天守の建造中に暴風雨を受け、完成間近に倒壊してしまい、現在の伊賀上野城は1935年に木造で建築された模擬天守である。しかし、ここには注目すべき遺産が残されている。高さ約30mの高石垣だ。徳川の再建大坂城ができるまでは日本一の高さを誇っていた。この石垣を築きあげたのは藤堂高虎。加藤清正と並び、築城の名手とうたわれた武将だ。もとは豊臣の家臣だったが、秀吉の死後は徳川家康に仕えるようになる。

藤堂高虎像(伊賀文化産業協会 提供)の画像
藤堂高虎像(伊賀文化産業協会 提供)

藤堂高虎の唐冠型兜(伊賀文化産業協会 提供)の画像
藤堂高虎の唐冠型兜(伊賀文化産業協会 提供)


藤堂高虎は主君を7度も変えたことから世渡り上手という声もある。政情がめまぐるしく変わる戦国の世では主君を変えることは珍しいことではない。ただ、ひとりの君主に仕え続けることが美徳とされた後世の江戸時代の価値観によって、高虎を義に欠けた男とみなす人がいたのだろう。しかし、その評価には曲解も多い。若い頃に主君に恵まれなかったり、主君の死に遭遇したりで、仕える相手が変わっただけであり、人一倍、忠義を重んじる人だったとの評価もある。豊臣秀吉の弟である秀長には死ぬまで忠誠を尽くし、徳川家康の信頼はとりわけ厚く、その死に際には枕元に呼ばれたほどである。

ビジネス社会においてもひとつの会社に勤め続けることが善という価値観があったが、もはやそういう時代ではない。勤務先が自分に合わないと思ったら、自己の能力を活かせる新天地を求めて、ステップアップするのはいまや当たり前のことだ。高虎は現代を先取りしていたともいえ、最近では「戦国の転職王」としてキャリア形成の視点からも注目されている。さらに藩主としての優れた実績があらためてクローズアップされ、江戸時代の藩政の基礎を築いた人としてマネジメントの分野でも脚光を浴びている。

伊賀上野城に秘められた
徳川のトップシークレット

伊賀上野城は豊臣の天下では江戸の徳川家康を封じ、「大坂を守る城」だった。しかし、関ヶ原の戦いで家康が勝利したあとは、一転して「大坂を攻める城」となる。伊賀上野を重要視していた家康は慶長13年(1608年)に城主の筒井定次を改易し、かねてより高い信頼を寄せていた藤堂高虎を新たな城主に任命する。このとき家康は高虎に対して2つのミッションを与えていたという。

ひとつめは大坂攻めがはじまったとき、徳川の司令塔である名古屋城を守る前線基地となるように、伊賀上野城を大改修することだった。ふたつめは大坂城攻めが失敗したとき、この城を最後の砦にすることだ。つまり家康が絶体絶命の危機に陥ったときに生き延びるための城をつくれ、ということであった。
こうした家康の命を受けて大改修に着手した城は、前任の筒井氏の城郭の3倍の広さがあり、もし家康の兵が籠城しても十分なキャパシティを有していた。四方を水堀で囲まれ、高さ30mの高石垣の上にそびえたつ、まさに難攻不落の大要塞になるはずだった。

服部半蔵正成
服部半蔵正成

なぜ家康がここまで伊賀上野を重視したのか。その理由のひとつが「伊賀越え」の体験にある。天正10年(1582年)本能寺の変により、家康が滞在先である堺から急いで岡崎城に帰るときのことだ。政変の混乱に巻き込まれないよう、家康の一行は通常のルートを避け、人目につかない抜け道である伊賀越えを行う。しかし、行く先には盗賊や追い剥ぎが多く、何度も危険な目にあったが、伊賀忍者である服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)・半蔵正成(はんぞうまさなり)の親子に大いに助けられたという。家康は自らの苦い体験によって伊賀を統治する重要性を知ったのである。
藤堂高虎が伊賀上野城主となったときには、伊賀忍者の服部氏の一族を城代にしている。独立心が強く、毅然と権力に刃向かい、織田信長ですら手を焼いた伊賀衆を、藤堂高虎は現地の人材を積極的に登用することで巧みに統率したという。伊賀衆なら必ず窮地を救ってくれるに違いない。そんな家康の期待も伊賀上野城には込められていたに違いない。

このように伊賀上野城は単なる地方の城ではなく、大坂包囲網の秘密基地のような役割をもつ戦略上きわめて重要な城であった。高虎も城主であるとともに、伊賀忍者のネットワークを駆使してインテリジェンスの収集・分析を行うトップでもある。さらには家康からの特命を帯び、大坂攻めが不首尾に終わったときにどうするかというトップシークレットの情報も託されている。大坂攻略というプロジェクトに限っていえば、高虎は現代のビジネスでいうところのCIO、最高情報責任者に近い存在であったとも考えられる。

「高虎式」の最高傑作になるはずだった
未完の大要塞

高虎は家康の城を具現化した人だ。秀吉の城が絢爛豪華な「見せる城」の要素を重視したのに対して、高虎の城は家康の好みである合理的で機能的な「戦う城」に徹していた。高い石垣、幅の広い堀、相手を欺く仕掛け、視界のよい層塔型天守などを特徴とする。

高石垣(伊賀文化産業協会 提供)の画像
高石垣(伊賀文化産業協会 提供)

大要塞となるはずだった伊賀上野城であるが、5層5階の大天守は完成を目前にして暴風によって倒壊する。さらに大坂の陣で豊臣家が滅びると大坂包囲網は不要となる。伊賀上野城の重要度も薄れ、改修が未完成のまま終わってしまう。そのため大坂城のある方向に面した西側には堅固な守りが築かれたが、東側は守りが浅いままになっている。
高虎は伊賀上野城を大改修する際、伊賀忍者に命じ、58カ国、148城の要害図を極秘に手に入れ、参考にしたといわれる。未完に終わったため、こうした諜報活動の成果が世に出ることはなかった。もし伊賀上野城が高虎の思惑通りに完成していたら、過去にない斬新な城になっていたことだろう。

伊賀上野城のパフォーマンスの高さは、現存する高石垣だけでも充分に伺い知ることができる。水堀からそびえ立つ高石垣は高さ29.7mで長さは368mにも及ぶ。下から眺めるとあまりにも高く、城内に侵入することはまず不可能に思える。加藤清正の石垣は武者返しと呼ばれる扇状の勾配を特徴とし、登ってもずり落ちてしまう形状になっている。それに対して、高虎の石垣は反りがなく直線的だが、とにかく高い。当時の一般的な石垣の2倍もしくは3倍の高さがあった。圧倒的な高さでもって「攻める気を起こさせない」ことを狙いとしている。

忍び井戸(伊賀文化産業協会 提供)の画像
忍び井戸(伊賀文化産業協会 提供)

伊賀上野城は長期の籠城を想定した城であるがゆえに、水や兵糧の確保を何よりも重視している。いまも城内に残る「忍び井戸」は五十間(約90m)の深井戸を掘り、さらに井戸の途中に3つのトンネルをつくり、抜け穴とした。この抜け穴は城の四方に通じ、その長さは一里(約4km)におよぶという。万一、籠城したときも、この抜け穴から兵糧を搬入したり、外部と連絡をとることができる。家康をかくまったときは、この忍び井戸から伊賀者を護衛につけて名古屋城に逃がすことを考えていたらしい。秘密を保持するため、入口のある小天守と抜け穴の出口には忍びの者がつねに監視にあたっていたという。
リスクに対する周到な準備と高いセキュリティ意識は、高虎がやはりただものではないことがわかる。

清荒廃した城下町を復興に導いた
イノベーター

藤堂高虎は城下町の発展にも才能を発揮した。伊勢津藩の中心である津は、高虎がくる前は戦乱のため荒れ果てていた。その復興のために高虎は津の町を、伊勢神宮を参拝する人たちの宿場町にすることを思いつく。伊勢神宮につながる伊勢街道の経路を変えて、津の町に通し、新たな川をつくるなど、さまざまなインフラ整備を行うことで、津の町は復興し、大いに栄えた。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と、うたわれる伊勢音頭は、高虎の功績がなければ生まれなかったかもしれない。

高虎の遺訓にこんな言葉がある。「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」(今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよ。そうすれば物事に動じることがない)。この言葉をみると、世渡り上手という高虎の評価はまったくふさわしくないように思える。人から何と言われようとも自分の信念を貫いてきた武将としての強い意志を感じさせる。

現代の尺度からみると、藤堂高虎は世渡り上手というよりも、時代の先を読み、新たな価値を生み出すイノベーターだったといえる。変化を恐れず、みずからの才能を発揮できる場を求め、信じるところを突き進む。その大胆で勇気ある行動の数々は、現代のICT業界などに見られるカリスマ経営者たちの行動パターンと通じるものがある。ビジネスパーソンの指針となるだけでなく、新たな事業を構想するうえで、有用なヒントを与えてくれる武将のひとりといえるだろう。

享保3年頃絵図 小谷精一氏寄贈伊賀上野城蔵の画像
享保3年頃絵図 小谷精一氏寄贈伊賀上野城蔵
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現在の伊勢街道
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