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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー】第6回 豊臣と徳川の攻防を伝える城 大坂城

◎所在地:大阪市中央区大阪城
◎主な築城:天正11年(1583年)豊臣秀吉 元和6年(1620年)徳川秀忠

イノベーションとネゴシエーションに屈した豊臣の城

豊臣大坂城は本丸、二の丸、三の丸、総構を加えると城全体で4,000ヘクタールにもなる巨大城郭だった。現在の大坂城は二の丸までの広さにすぎず、オリジナルの大坂城がいかに壮大なスケールの城だったかがわかる。豊臣秀吉は生前「大坂城は誰にも落とせない」と豪語していた。しかし、あるとき興に乗った秀吉が「力づくで攻めてから和睦を結んで堀を埋め、その後、大軍で攻めればよい」と徳川家康に攻略法をほのめかしたことがある。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣において家康はその通りのことを実行したのだ。

真田幸村像 上田市立博物館蔵の画像
真田幸村像 上田市立博物館蔵

大坂冬の陣にて西軍(豊臣側)についた真田幸村(信繁)や後藤基次(又兵衛)らは後詰の援軍が期待できない籠城戦では勝ち目がないと主張した。しかし西軍を指揮する大野治長は秀頼や淀殿の意向もあり、半ば強硬に籠城を選択する。そこで築かれたのが真田丸である。三方を川に囲まれた大坂城で、南方だけ川がないため、防御がやや手薄になっている。敵が攻めてくるならここしかないと判断した幸村が南方の総構の外に出丸を築いた。敵の攻撃を一手に集め、一網打尽にするという作戦である。幸村の思惑通り、真田丸は功を奏し、東軍に多大な損害を与えることに成功した。敗退した徳川秀忠は真田丸への総攻撃を提案するが、家康は勝ちを急ぐ秀忠を諌め、まったく別の作戦をとった。

徳川家康像(堺市博物館 蔵)の画像
徳川家康像(堺市博物館 蔵)

大坂城に連日連夜、大筒を打ち込むという作戦である。北方の備前島に100門もの大筒を置き、砲撃を開始したのだ。大筒はイギリス製を含めた最新鋭の機種で、大坂城の本丸まで到達する性能をもっていた。この砲撃によって淀殿の侍女8人が命を落としたといわれる。これは淀殿に精神的なダメージを与えることを狙った心理戦でもある。籠城なら安全と思っていた淀殿は動揺し、家康の和議の申し出に安易に応じてしまう。革新的な兵器の導入が、籠城の利点をいとも簡単に吹き飛ばしてしまったのだ。和議の結果、最初の取り決めでは総構の堀だけを壊すという内容だったが、家康はこれをすべての堀であると拡大解釈し、二の丸、三の丸の堀まで壊す。秀吉が膨大な時間とコストを費やして整備したセキュリティが解除されてしまったのだ。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、西軍にはもはや徳川と互角に戦うような力は残されていなかったのである。

豊臣大坂城の落城は、いかにインフラや資産をもっていても、経営トップに相手の戦略を見抜く知力や見識がないと根底から瓦解するという実例である。相手の弱みを的確に突く家康のタフなネゴシエーション能力が、淀殿と秀頼を手玉に取ったのだ。正面突破で多大な人材やコストを投入するよりも、老練な交渉術によって充分な成果を挙げられることを実証したのである。これぞ戦わずして勝つ兵法の極意ともいえる。そのやり方はいささか強引で賛否両論があるが、隙を見せると足元をすくわれるのは乱世でも現代のビジネス社会でも変わりない。交渉とは何かを考える上で、この大坂冬の陣のエピソードはさまざまな示唆を与えてくれる。

今も大阪に息づくカリスマ経営者のビジネスマインド

豊臣大阪城(城郭模型製作工房 島 充・作)の画像
豊臣大坂城(城郭模型製作工房 島 充・作)

なぜ復興大坂城のモデルは徳川大坂城ではなく、豊臣大坂城だったのか。その理由としては、復興するにあたり、参考となる画像資料が『大坂夏の陣図屏風』に描かれた豊臣大坂城の絵しかなかったからだといわれている。だが、もし徳川大坂城の画像があったとしても、大阪の人たちは豊臣大坂城をもとに復興することを選んだに違いない。大阪の町をつくったのは秀吉という思いが強く、いまだに秀吉は「太閤さん」として地元の人たちに親しまれている。万城目学氏の小説『プリンセス・トヨトミ』は大阪の地下に今も豊臣家の末裔が率いる国があるという設定だが、「地下に眠る豊臣大坂城」には、そんな想像をかきたてる何かがある。

現在の大阪城周辺(PIXTA)の画像
現在の大阪城周辺(PIXTA)

ただ城を築くだけでなく、城下町を整備し、国を発展させるのは信長の手法だが、これを大きく進展させたのが秀吉である。持ち前の発想力と行動力を活かして、都市の改造や経営に天才的な能力を発揮した。戦乱で荒れ果てた京都を復興させたのも秀吉の功績である。大規模な土木治水事業を行い、インフラを整備するといった事業は、専門の職能集団を数多く抱えていた秀吉の得意とするところである。大阪に経済特区のような恩恵を与えることで、他の都市からも多くの商人や町人を呼び寄せ、自由な商いを奨励する。その結果、新たな産業が数多く生まれ、大阪は商都として大いに発展していくことになった。秀吉の大坂城の土台(または石垣)は地下に埋もれたままだが、秀吉の大坂の町は今も生き続けているのである。

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