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豊臣と徳川の攻防を伝える城

大坂城

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豊臣と徳川の激しい攻防が繰り広げられた大坂城は、天下統一をめざした豊臣秀吉と、秀吉亡き後の天下を狙った家康の戦略を今に伝える名城。現在の天守閣は昭和6年(1931年)に復興されたもので、徳川大坂城の天守台の上に豊臣大坂城をもとにした天守が築かれている。

◎所在地:大阪市中央区大阪城
◎主な築城:天正11年(1583年)豊臣秀吉 元和6年(1620年)徳川秀忠

日本を二分した権力闘争の舞台となった
巨大城郭

大坂城(PIXTA)の画像
大坂城(PIXTA)

大坂城ほど劇的な運命を辿った城はない。豊臣と徳川という二大勢力が真正面から衝突した舞台だったからだ。ひとくちに大坂城といっても、3つの城が存在する。まず豊臣秀吉の築いた豊臣大坂城、次に徳川秀忠の築いた徳川大坂城、そして現在の復興天守である。
豊臣大坂城は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で徳川の攻撃によって炎上する。その後、徳川が築いた城は、豊臣大坂城の土台(または石垣)を埋めた上に建造したものだ。その天守は寛文5年(1665年)に落雷で焼失して以来、再建されることはなかった。現在の天守は昭和6年(1931年)に復興されたもので、徳川大坂城の天守台の上に、豊臣大坂城をもとにした天守が築かれている。資料では豊臣大坂城は全体が黒壁だが、復興天守は望楼部分のみ黒壁でその他は白壁になっている。これは徳川の城である名古屋城も参考にしたためといわれている。現在の大坂城は豊臣の城と徳川の城のハイブリッドなのだ。

豊臣秀吉像(高台寺所蔵)徳川秀忠像(松平西福寺 蔵)の画像
豊臣秀吉像(高台寺所蔵)徳川秀忠像(松平西福寺 蔵)

秀吉の大坂城の土台(または石垣)を地下に埋めたのは、徳川大坂城を新たに築くにあたり、秀吉色を一掃するためといわれてきた。しかし、すべての建造物が焼失していたのにも関わらず、縄張は豊臣大坂城のものとそう大きくは変わらない。桜門、大手門、極楽橋、千貫櫓などの名称も豊臣大坂城のものが継承されている。秀吉色を排除するのであれば、新しい縄張、新しい名称に改めることが道理のように思える。徳川大坂城の普請総指図役として縄張を担当したのは築城の名手、藤堂高虎(第5回ご参照)だ。彼がこだわったのは高い石垣を築くことだった。本丸の石垣は30m以上もあり、日本一の高さである。豊臣大坂城を埋めたのはこの高石垣を築くためであり、豊臣色の排除が必ずしも目的ではなかったという見方をする人もいる。

ビジネスにおいても、同業者の跡地や施設をそのまま使用することがある。すでに効率や使い勝手が検討された立地や設計であることが多く、その場合は構造をあえて大きく変える必要がない。豊臣大坂城は前の天下人の城であり、防御や水利を含めて極めて完成度が高い。石垣さえ高く築くことができれば、あとは従来通りのほうが工期が短くコストも安くつく。そんな合理的な判断がはたらいたのかもしれない。

左から 大手門と千貫櫓、極楽橋、桜門(PIXTA)の画像
左から 大手門と千貫櫓、極楽橋、桜門(PIXTA)

豊臣ブランドのシンボルとして機能した
「見せる城」

大坂はもともと一向宗の本山、石山本願寺があった場所だ。この地に早くから目をつけていたのが織田信長である。海陸ともに交通の便がよく、海外貿易に積極的だった信長にはまさに絶好の場所だった。天下統一の際には大坂を本拠地にしたいと考えた信長は石山本願寺にこの地を譲るよう求めたが、相手は頑として首を縦に振らない。11年間におよぶ抗争の末にようやく手に入れたが、まもなくして信長は本能寺に倒れる、その遺志を継いだのが豊臣秀吉だ。好立地ということは、攻めやすいということでもある。その弱点をカバーするように設計されたのが大坂城なのだ。

豊臣大坂城の縄張を担当したのは、黒田官兵衛(如水)である。軍師のイメージが強い人だが、城の建造に卓越した才能を発揮し、加藤清正、藤堂高虎とともに、三大築城名人に数えられる。官兵衛は石山本願寺跡の台地を造成し、堅牢な石垣を築いた。本丸を内堀と外堀で囲み、さらに天然の河川と運河によって囲むなど、鉄壁の防御態勢を敷いている。「戦いの城」としては最高峰ともいえるスペックを備えた難攻不落の城だった。

豊臣大阪城 天守閣模型(城郭模型製作工房 島 充・作)の画像
豊臣大坂城 天守閣模型
(城郭模型製作工房 島 充・作)

さらに、秀吉の大坂城は何よりも「見せる城」としてのパフォーマンスを重視していた。絢爛を極めた城の偉容を見せつけることで天下人の権勢を印象づけるのである。秀吉の大坂城が実際にはどのような姿をしていたのか。その手がかりとなるのが、官兵衛の子である黒田長政が描かせたと伝えられる『大坂夏の陣図屏風』だ。そこには落城直前の大坂城の姿が精緻に描かれている。建物全体が黒壁で、金箔瓦をはじめとする金の装飾がふんだんに施され、重厚な印象を放っている。現在の大坂城はこの絵をもとに復興されたが、黒壁が一部にしか採用されていない、金の装飾が少ないなど、いくつかの点で異なっている。



大阪城跡出土の金箔瓦(大阪府教育委員会 所蔵)の画像
大坂城跡出土の金箔瓦
(大阪府教育委員会 所蔵)

豊臣大坂城が黒壁なのは金色がもっともよく映えるからだという。秀吉の旗印が文字も図柄もなく金一色であったように、金は豊臣のテーマカラーである。金をあしらった城そのものが豊臣政権の強大さを示すシンボルであり、金箔瓦は豊臣ブランドを想起させるビジュアル・アイデンティティのような役割を果たしていたとされる。いわば豊臣コーポレーションのフランチャイズであることを示す看板のようなものだ。各地の配下の大名に同じような城を築かせ、金箔瓦を使用する許可を与え、城の装飾とすることで、豊臣支配の広がりを「見える化」したのである。秀吉の金箔瓦が見つかった城は20カ所以上あるといわれ、豊臣のブランド戦略が思った以上に広く浸透していたことがうかがわれる。

イノベーションとネゴシエーションに
屈した豊臣の城

豊臣大坂城は本丸、二の丸、三の丸、総構を加えると城全体で4,000ヘクタールにもなる巨大城郭だった。現在の大坂城は二の丸までの広さにすぎず、オリジナルの大坂城がいかに壮大なスケールの城だったかがわかる。豊臣秀吉は生前「大坂城は誰にも落とせない」と豪語していた。しかし、あるとき興に乗った秀吉が「力づくで攻めてから和睦を結んで堀を埋め、その後、大軍で攻めればよい」と徳川家康に攻略法をほのめかしたことがある。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣において家康はその通りのことを実行したのだ。

真田幸村像 上田市立博物館蔵の画像
真田幸村像 上田市立博物館蔵

大坂冬の陣にて西軍(豊臣側)についた真田幸村(信繁)や後藤基次(又兵衛)らは後詰の援軍が期待できない籠城戦では勝ち目がないと主張した。しかし西軍を指揮する大野治長は秀頼や淀殿の意向もあり、半ば強硬に籠城を選択する。そこで築かれたのが真田丸である。三方を川に囲まれた大坂城で、南方だけ川がないため、防御がやや手薄になっている。敵が攻めてくるならここしかないと判断した幸村が南方の総構の外に出丸を築いた。敵の攻撃を一手に集め、一網打尽にするという作戦である。幸村の思惑通り、真田丸は功を奏し、東軍に多大な損害を与えることに成功した。敗退した徳川秀忠は真田丸への総攻撃を提案するが、家康は勝ちを急ぐ秀忠を諌め、まったく別の作戦をとった。

徳川家康像(堺市博物館 蔵)の画像
徳川家康像(堺市博物館 蔵)

大坂城に連日連夜、大筒を打ち込むという作戦である。北方の備前島に100門もの大筒を置き、砲撃を開始したのだ。大筒はイギリス製を含めた最新鋭の機種で、大坂城の本丸まで到達する性能をもっていた。この砲撃によって淀殿の侍女8人が命を落としたといわれる。これは淀殿に精神的なダメージを与えることを狙った心理戦でもある。籠城なら安全と思っていた淀殿は動揺し、家康の和議の申し出に安易に応じてしまう。革新的な兵器の導入が、籠城の利点をいとも簡単に吹き飛ばしてしまったのだ。和議の結果、最初の取り決めでは総構の堀だけを壊すという内容だったが、家康はこれをすべての堀であると拡大解釈し、二の丸、三の丸の堀まで壊す。秀吉が膨大な時間とコストを費やして整備したセキュリティが解除されてしまったのだ。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、西軍にはもはや徳川と互角に戦うような力は残されていなかったのである。

豊臣大坂城の落城は、いかにインフラや資産をもっていても、経営トップに相手の戦略を見抜く知力や見識がないと根底から瓦解するという実例である。相手の弱みを的確に突く家康のタフなネゴシエーション能力が、淀殿と秀頼を手玉に取ったのだ。正面突破で多大な人材やコストを投入するよりも、老練な交渉術によって充分な成果を挙げられることを実証したのである。これぞ戦わずして勝つ兵法の極意ともいえる。そのやり方はいささか強引で賛否両論があるが、隙を見せると足元をすくわれるのは乱世でも現代のビジネス社会でも変わりない。交渉とは何かを考える上で、この大坂冬の陣のエピソードはさまざまな示唆を与えてくれる。

今も大阪に息づく
カリスマ経営者のビジネスマインド

豊臣大阪城(城郭模型製作工房 島 充・作)の画像
豊臣大坂城(城郭模型製作工房 島 充・作)

なぜ復興大坂城のモデルは徳川大坂城ではなく、豊臣大坂城だったのか。その理由としては、復興するにあたり、参考となる画像資料が『大坂夏の陣図屏風』に描かれた豊臣大坂城の絵しかなかったからだといわれている。だが、もし徳川大坂城の画像があったとしても、大阪の人たちは豊臣大坂城をもとに復興することを選んだに違いない。大阪の町をつくったのは秀吉という思いが強く、いまだに秀吉は「太閤さん」として地元の人たちに親しまれている。万城目学氏の小説『プリンセス・トヨトミ』は大阪の地下に今も豊臣家の末裔が率いる国があるという設定だが、「地下に眠る豊臣大坂城」には、そんな想像をかきたてる何かがある。

現在の大阪城周辺(PIXTA)の画像
現在の大阪城周辺(PIXTA)

ただ城を築くだけでなく、城下町を整備し、国を発展させるのは信長の手法だが、これを大きく進展させたのが秀吉である。持ち前の発想力と行動力を活かして、都市の改造や経営に天才的な能力を発揮した。戦乱で荒れ果てた京都を復興させたのも秀吉の功績である。大規模な土木治水事業を行い、インフラを整備するといった事業は、専門の職能集団を数多く抱えていた秀吉の得意とするところである。大阪に経済特区のような恩恵を与えることで、他の都市からも多くの商人や町人を呼び寄せ、自由な商いを奨励する。その結果、新たな産業が数多く生まれ、大阪は商都として大いに発展していくことになった。秀吉の大坂城の土台(または石垣)は地下に埋もれたままだが、秀吉の大坂の町は今も生き続けているのである。

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