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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー】第8回 戦国を生きた最古の現存天守 国宝 犬山城

なぜ、そこに城があるのか。なぜ、このような構造なのか。軍事要塞である城には、城主の知恵や思惑が潜んでいる。その戦略の立て方は現代のビジネスにも通底することが多い。主要な建造物が現存する名城を中心に「戦う城」の実力に迫る。

◎所在地:愛知県犬山市犬山北古券 ◎主な築城:天文6年(1537年)織田信康

木曽川を背にそびえたつ天下の要衝「白帝城」

犬山城と木曽川(犬山城 提供)の画像
犬山城と木曽川(犬山城 提供)

犬山城は木曽川を背後にした断崖絶壁にある平山城(ひらやまじろ)である。兵法でいうところの後堅固(うしろけんご)の城で、「白帝城(はくていじょう)」とも呼ばれる。その景観が中国唐代の詩人である李白の『早発白帝城』に詠われた、長江の岸にたつ白帝城の佇まいを想起させることから、江戸時代の儒学者・思想家の荻生徂徠(おぎゅうそらい)が命名したと伝えられる。白帝城は三国志で知られる劉備玄徳が没した城である。

成瀬正成(白林寺 所蔵)の画像
成瀬正成(白林寺 所蔵)

築城は天文6年(1537年)、織田信長の叔父、織田信康によるもので、現存天守のなかではもっとも古いとされる。織田信康のあとは子の信清が継いだが、信長に敵対する美濃の斎藤龍興(たつおき)と手を組んだことから攻められ、犬山城は信長の配下となる。その後、城主となったのが池田恒興(つねおき)である。恒興の母は信長の乳母(めのと)で、恒興は信長の乳兄弟(ちきょうだい)にあたる。以後は織田、豊臣、徳川と覇権が変わるにつれ、城主はめまぐるしく変わっていく。徳川の世になり尾張藩の付家老、成瀬正成が城主になってからは安定期を迎え、現代までずっと成瀬家が犬山城の城主であり続けてきた。

犬山城は国宝5天守のなかで戦を経験した唯一の城である。それも信長、秀吉、家康という3人の天下人すべてがこの城をめぐる戦いに関わっている。まさに天下争いの最前線をかいくぐってきた稀有な城といえるだろう。犬山城について掘り下げることは、武将たちの戦略を深く知ることになる。なかでも秀吉と家康が直接対決した小牧・長久手の戦いは、戦略とは何かを学ぶケーススタディの好例として、ビジネス書などでも取り上げられることが多い。

秀吉と家康が激突するトリガーとなった犬山城

現代のビジネスの世界でも注目される小牧・長久手の戦いとは、いかなる戦いであったのか。
江戸時代の歴史家・思想家、頼山陽(らいさんよう)が著した『日本外史』にはこうある。「家康の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり。関ヶ原にあらずして小牧にあり」。徳川家康が天下人になる決め手となったのは、大坂の陣でも関ヶ原の合戦でもなく、小牧・長久手の戦いだったという意味である。その戦いの内容を簡単にまとめてみる。

豊臣 秀吉 像(高台寺 蔵)の画像
豊臣 秀吉 像(高台寺 蔵)

天正12年(1584年)、織田信長の亡き後、急速に勢力を拡大する羽柴秀吉と、信長の次男である信雄(のぶかつ)が対立。秀吉が信雄に兵を向け、信雄と同盟を結んでいた徳川家康も参戦する。戦いの口火を切ったのが犬山城であった。秀吉は信雄の本拠地の伊勢に攻めると見せかけて、尾張の犬山城に奇襲をかけ奪取する。犬山城の重要性を知る家康はすぐさま、この城の南にある小牧山城に本陣を構え、急いでその防御を固めた。秀吉軍が約10万に対し、家康軍は約1万7千。膠着状態が続いた後、秀吉は家康の領国である三河を攻め、家康を小牧山城からおびき出そうとする。しかし家康はこれを事前に察知し、長久手で秀吉軍を迎え撃ち、劇的な勝利を収めた。
この敗戦を機に秀吉は作戦を変え、織田信雄のみをターゲットにする。秀吉は戦いの舞台を尾張から伊勢に移し、信雄を攻める。信雄は戦意を喪失し、単独で秀吉と講和を結んでしまう。やむなく家康も秀吉と和睦し、小牧・長久手の戦いは終わりを迎えた。

「二雄槍戦之図」-小牧長久手の戦い-(画像提供 古美術もりみや)の画像
「二雄槍戦之図」-小牧長久手の戦い-(画像提供 古美術もりみや)

この戦いで直接対決を制したのは徳川家康だったが、より多くの利を手にしたのは羽柴秀吉だった。秀吉は織田信雄が連合軍のボトルネックであることを見極め、手強い家康との戦いを避け、信雄の攻略に戦力を集中投下した。いわば選択と集中であり、戦況に応じてKFS(Key Factor for Success)を調整したわけである。ボトルネックが解消されなければ、他の部分にいかに資源や人員を投入しようと、全体の成果は向上しない。そんな現代の経営理論を熟知したかのような秀吉の戦略であった。
さらに功を奏したのが、大兵力による徹底した物量作戦だ。敵を圧倒する兵力を見せつけることで戦意をくじき「戦わずして勝つ」のが狙いである。しかし、ただ兵を多く集めればいいわけではない。多くの兵を養うには資金力が必要であり、戦場まで兵糧や弾薬などの物資を運ぶロジスティックスの能力が重要となる。これらを持ち合わせていたのが秀吉の軍だった。堺の商人と通じていた秀吉は、その財力を自らの兵力に投資させる。年貢米を基本とした当時の経済からすると、商人すなわち市場から資金を調達した一種の金融テクノロジーともいえる。小牧・長久手の戦いにおける秀吉の勝利は、経済力の勝利という側面もあったのだ。
また、この戦いの間、秀吉は家康の重臣である石川数正を調略、さらに朝廷から官位を得るなど、さまざまな天下取りの布石を打ち、戦局をさらに有利に導いている。

一方、家康はこの経験を通じて「戦わずして勝つ」という戦略の本質を学んだ。のちの関ヶ原の合戦、大坂の陣では、さまざまな調略や裏工作を駆使して豊臣家を徹底的に追い込むことに成功する。インテリジェンスの分析、策略や奸計の効力、組織運営のあり方など、経営戦略のヒントとなる興味深いテーマが小牧・長久手の戦いには数多く混在しているのである。

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