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戦国を生きた最古の現存天守

犬山城

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犬山城は木曽川を背後にした断崖絶壁にあり、兵法でいうところの後堅固(うしろけんご)の城である。最古の現存天守とされるこの城は、羽柴秀吉と徳川家康が直接対決した小牧・長久手の戦いの舞台でもある。この合戦で繰り広げられた両雄の戦略は、経営の参考になるところが多い。

◎所在地:愛知県犬山市犬山北古券 ◎主な築城:天文6年(1537年)織田信康

木曽川を背にそびえたつ天下の要衝
「白帝城」

犬山城と木曽川(犬山城 提供)の画像
犬山城と木曽川(犬山城 提供)

犬山城は木曽川を背後にした断崖絶壁にある平山城(ひらやまじろ)である。兵法でいうところの後堅固(うしろけんご)の城で、「白帝城(はくていじょう)」とも呼ばれる。その景観が中国唐代の詩人である李白の『早発白帝城』に詠われた、長江の岸にたつ白帝城の佇まいを想起させることから、江戸時代の儒学者・思想家の荻生徂徠(おぎゅうそらい)が命名したと伝えられる。白帝城は三国志で知られる劉備玄徳が没した城である。

成瀬正成(白林寺 所蔵)の画像
成瀬正成(白林寺 所蔵)

築城は天文6年(1537年)、織田信長の叔父、織田信康によるもので、現存天守のなかではもっとも古いとされる。織田信康のあとは子の信清が継いだが、信長に敵対する美濃の斎藤龍興(たつおき)と手を組んだことから攻められ、犬山城は信長の配下となる。その後、城主となったのが池田恒興(つねおき)である。恒興の母は信長の乳母(めのと)で、恒興は信長の乳兄弟(ちきょうだい)にあたる。以後は織田、豊臣、徳川と覇権が変わるにつれ、城主はめまぐるしく変わっていく。徳川の世になり尾張藩の付家老、成瀬正成が城主になってからは安定期を迎え、現代までずっと成瀬家が犬山城の城主であり続けてきた。

犬山城は国宝5天守のなかで戦を経験した唯一の城である。それも信長、秀吉、家康という3人の天下人すべてがこの城をめぐる戦いに関わっている。まさに天下争いの最前線をかいくぐってきた稀有な城といえるだろう。犬山城について掘り下げることは、武将たちの戦略を深く知ることになる。なかでも秀吉と家康が直接対決した小牧・長久手の戦いは、戦略とは何かを学ぶケーススタディの好例として、ビジネス書などでも取り上げられることが多い。

秀吉と家康が激突するトリガーとなった
犬山城

現代のビジネスの世界でも注目される小牧・長久手の戦いとは、いかなる戦いであったのか。
江戸時代の歴史家・思想家、頼山陽(らいさんよう)が著した『日本外史』にはこうある。「家康の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり。関ヶ原にあらずして小牧にあり」。徳川家康が天下人になる決め手となったのは、大坂の陣でも関ヶ原の合戦でもなく、小牧・長久手の戦いだったという意味である。その戦いの内容を簡単にまとめてみる。

豊臣 秀吉 像(高台寺 蔵)の画像
豊臣 秀吉 像(高台寺 蔵)

天正12年(1584年)、織田信長の亡き後、急速に勢力を拡大する羽柴秀吉と、信長の次男である信雄(のぶかつ)が対立。秀吉が信雄に兵を向け、信雄と同盟を結んでいた徳川家康も参戦する。戦いの口火を切ったのが犬山城であった。秀吉は信雄の本拠地の伊勢に攻めると見せかけて、尾張の犬山城に奇襲をかけ奪取する。犬山城の重要性を知る家康はすぐさま、この城の南にある小牧山城に本陣を構え、急いでその防御を固めた。秀吉軍が約10万に対し、家康軍は約1万7千。膠着状態が続いた後、秀吉は家康の領国である三河を攻め、家康を小牧山城からおびき出そうとする。しかし家康はこれを事前に察知し、長久手で秀吉軍を迎え撃ち、劇的な勝利を収めた。
この敗戦を機に秀吉は作戦を変え、織田信雄のみをターゲットにする。秀吉は戦いの舞台を尾張から伊勢に移し、信雄を攻める。信雄は戦意を喪失し、単独で秀吉と講和を結んでしまう。やむなく家康も秀吉と和睦し、小牧・長久手の戦いは終わりを迎えた。

「二雄槍戦之図」-小牧長久手の戦い-(画像提供 古美術もりみや)の画像
「二雄槍戦之図」-小牧長久手の戦い-
(画像提供 古美術もりみや)

この戦いで直接対決を制したのは徳川家康だったが、より多くの利を手にしたのは羽柴秀吉だった。秀吉は織田信雄が連合軍のボトルネックであることを見極め、手強い家康との戦いを避け、信雄の攻略に戦力を集中投下した。いわば選択と集中であり、戦況に応じてKFS(Key Factor for Success)を調整したわけである。ボトルネックが解消されなければ、他の部分にいかに資源や人員を投入しようと、全体の成果は向上しない。そんな現代の経営理論を熟知したかのような秀吉の戦略であった。
さらに功を奏したのが、大兵力による徹底した物量作戦だ。敵を圧倒する兵力を見せつけることで戦意をくじき「戦わずして勝つ」のが狙いである。しかし、ただ兵を多く集めればいいわけではない。多くの兵を養うには資金力が必要であり、戦場まで兵糧や弾薬などの物資を運ぶロジスティックスの能力が重要となる。これらを持ち合わせていたのが秀吉の軍だった。堺の商人と通じていた秀吉は、その財力を自らの兵力に投資させる。年貢米を基本とした当時の経済からすると、商人すなわち市場から資金を調達した一種の金融テクノロジーともいえる。小牧・長久手の戦いにおける秀吉の勝利は、経済力の勝利という側面もあったのだ。
また、この戦いの間、秀吉は家康の重臣である石川数正を調略、さらに朝廷から官位を得るなど、さまざまな天下取りの布石を打ち、戦局をさらに有利に導いている。

一方、家康はこの経験を通じて「戦わずして勝つ」という戦略の本質を学んだ。のちの関ヶ原の合戦、大坂の陣では、さまざまな調略や裏工作を駆使して豊臣家を徹底的に追い込むことに成功する。インテリジェンスの分析、策略や奸計の効力、組織運営のあり方など、経営戦略のヒントとなる興味深いテーマが小牧・長久手の戦いには数多く混在しているのである。

戦国の城を受け継ぐ
質実剛健なアーキテクチャー

犬山城は国宝5城のなかでも、とりわけ古風な佇まいがある。この城が築かれた天文6年(1537年)は戦国時代のさなかであり、「戦う城」としての要素が強く、信長や秀吉の城に特有の「見せる城」という概念はなかった。このときに築かれたのは2層目までで、3層目が追加されたのは関ヶ原の合戦後である。その後、尾張藩の付家老、成瀬正成(まさなり)が城主となり、3層目に唐破風(からはふ)を加えるなど、優美な近世城郭の趣が備わった現在の天守の姿になったという。犬山城の特徴はなんといってもそのロケーションにある。木曽川を背にして断崖にそびえる姿は、いかにも戦国の城という趣があり、実際に戦が行われた城ならではの緊迫感を漂わせる。

最古の現存天守だけに、犬山城には他の天守にはない独自の様式が見られる。たとえば入口は石垣をくりぬいた部分に門がある。その先は穴蔵と呼ばれる地下2階で、石垣がむき出しのままだ。土台となっている太い梁は手斧(ちょうな)で削られている。これは戦国時代の建物によく行われた仕上げの技法だという。
1階は戦闘時に武士が集う武者走り(むしゃばしり)になっている。黒光りした床板には、屈強な武者たちが激しく行き来した姿を思い起こさせる。中央の上段の間は成瀬家が城主になったときに新設した部屋で、隣に武者かくしの間があり、家来が控えていたという。
壁には武者窓(むしゃまど)と呼ばれる小さな窓がいくつもあり、鉄砲や矢で敵を攻撃する狭間(さま)として使われた。外に突き出した部屋は、石落としの間だが現在は穴が塞がれている。城の背後の木曽川を監視する場所だったともいわれる。南東の付櫓(つけやぐら)は槍の収納庫で、敵を迎撃するための待機部屋でもあった。

上段左から:穴蔵、武者走り、付櫓 下段左から:武具の間、入母屋破風、回り縁(犬山城 提供)の画像
上段左から:穴蔵、武者走り、付櫓 下段左から:武具の間、入母屋破風、回り縁(犬山城 提供)

2階には武具の間があり、兜や鎧など防具を置く部屋として使用されていた。3階は南北に唐破風(からはふ)、東西に入母屋破風(いりもやはふ)があしらわれている。これらの破風は単なる装飾ではなく、敵を見張る櫓としての機能を備えている。最上階の4階は東西南北を見渡せる回り縁(まわりえん)がある。南は尾張平野、西から北は木曽川を一望できる。
派手さはないが「戦う城」として実に無駄のない構造である。実際の戦闘のなかで、不要なものは削ぎ落とされ、必要なものだけが残った。そんな研ぎ澄まされた機能美を犬山城は感じさせる。

400年も城を守り続けた
成瀬家のサステナブル経営

犬山城を語るうえで欠かすことのできないのが成瀬家の功績だ。尾張藩の初代付家老、成瀬正成(まさなり)が犬山城の城主となったのは元和3年(1617年)のこと。付家老とは主君を補佐する要職だが、大名でも藩主でもなく、あくまでも藩に属する家老である。

以後、犬山城は代々、成瀬家が城主を務める。通例では1万石以上の所領をもつ者が大名であり、3万5千石を有する成瀬家は充分にその資格があったが、尾張藩の付家老という立場のため、大名とは認められなかった。成瀬家は藩として独立できるよう何度も幕府に働きかけたが受け入れられなかった。念願がようやくかなったのは慶応4年(1868年)。しかし、その直後に時は明治となり廃藩置県によって犬山藩は消滅。そして城も県のものとなった。

崩壊した天守 (犬山城 提供)の画像
崩壊した天守
(犬山城 提供)

明治6年(1873年)、廃城令(※1)によって犬山城は天守だけを残して取り壊される。さらに明治24年(1891年)、濃尾大地震によって天守が倒壊する。県が城の取り壊しを検討していた矢先、その危機を救ったのが9代目当主の成瀬正肥(まさみつ)だった。県は城の修復を条件に、犬山城の所有者を成瀬家とする。正肥は私費と市民からの寄付で犬山城を修復した。それ以来、犬山城は日本で唯一の「個人所有」の城として受け継がれてきたのである。
2004年に犬山城は美術工芸品、刀剣類、古文書など成瀬家の所有していた貴重な文化財とともに財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管する。財団の理事長は引き続き成瀬家の子孫が務めている。1617年に成瀬正成が城主になって以来、実に400年にわたって成瀬家は犬山城を守り続けてきたことになる。

日本は世界最多の長寿企業をもつといわれる。創業100年を超える企業は約20,000社、300年を超える企業は約400社あるという。企業経営と城の継承を同列に語ることはできないが、尾張藩付家老として犬山城を守り抜いてきた成瀬家には、そうした長寿企業と共通するものがあるかもしれない。長寿企業の多くは同族継承であり、経営者は会社を自分個人の「所有物」と思っていないことが多い。会社は先祖や子孫からの「預かりもの」と捉え、「後継者にいい状態にして会社を引き継ぐべき」と考える傾向がある。成瀬家は付家老という役職ゆえに、徳川から城を預かっているという意識がある。ことさら城を守る思いが強かったに違いない。

現在の犬山城(犬山城 提供)の画像
現在の犬山城(犬山城 提供)

会社を永続させることが使命。そんな視点をもつ「レジリエント・カンパニー」という概念が注目されている。「レジリエント=RESILIENT」とは「回復力のある」いう意味で、企業を評価するひとつの指標となっている。グローバル企業の軸足も短期的な収益を重視する経営から、持続性を大切にする方向に経営の軸足が移りつつある。長期的なビジョンのもと企業経営を考えるとき、成瀬家と犬山城の関わりは清冽なインスピレーションを与えてくれる。

※1:明治政府より発令された「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)」の通称。陸軍の所管とする存城処分と、大蔵省の所管である廃城処分に分かれ、多くの城郭が取り壊された。

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