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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー】第9回 御三家筆頭、尾張徳川家の居城 名古屋城

なぜ、そこに城があるのか。なぜ、このような構造なのか。軍事要塞である城には、城主の知恵や思惑が潜んでいる。その戦略の立て方は現代のビジネスにも通底することが多い。主要な建造物が現存する名城を中心に「戦う城」の実力に迫る。

◎所在地:愛知県名古屋市中区本丸 ◎主な築城:慶長15年(1610年)徳川家康 徳川義直

大坂包囲網の拠点となった天下普請の軍事要塞

名古屋城と金の鯱の画像
名古屋城と金の鯱

黄金の鯱(しゃちほこ)が輝く名古屋城は、金鯱城(きんこじょう)の別名をもつ。日本三大名城のひとつとされるが、何を基準にするかで3つの城の顔ぶれが異なる。城郭の規模では名古屋城、姫路城、大坂城、築城名人の加藤清正、藤堂高虎が手がけた城では名古屋城、大坂城、熊本城とされるが、名古屋城はどちらにも選ばれている。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭にも詠われているように、名古屋城は昔から別格の城だったといえるだろう。

明治時代には名古屋離宮として使用されたことから保存状態がよく、国宝に指定されていたが、1945年の空襲で天守をはじめ、多くの建物を失った。現在の大天守と小天守は1959年に再建されたものである。3つの隅櫓(すみやぐら)など当時の姿を留める建造物の幾つかは辛くも戦禍を逃れ、国の重要文化財に指定されている。2009年には本丸御殿の復元工事がはじまり、2018年には完成する予定だ。本丸も戦争で消失したが、襖絵(ふすまえ)や杉戸絵(すぎとえ)、天井板絵などは疎開していたため、当時のものが残されている。

左から東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓、本丸御殿襖絵の画像
左から東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓、本丸御殿襖絵

名古屋城は江戸幕府の御三家筆頭、尾張徳川家の居城である。戦国時代に駿河の今川氏が築城したのがはじまりで、当時は那古野(なごや)城と呼ばれていた。これを織田信秀が奪取、その嫡男である信長はこの城で育った。信長が清州城に本拠を移したため廃城となっていたが、徳川家康が九男、義直(よしなお)の居城として天下普請(てんかぶしん)※による築城を命じたのである。名古屋城は尾張徳川家の城である前に、大坂城の豊臣家を封じ込めるための軍事基地であった。大坂を包囲するために家康は各地に城を築いてきたが、名古屋城はその総仕上げともいうべき最重要拠点なのだ。ビジネス書にもよく登場する家康だが、なぜ彼がビジネスパーソンの間で注目度が高いのか。その理由の一端が名古屋城に隠されている。

※天下普請:江戸幕府が各国の大名に命じて行わせた土木事業。費用、資材、人材のすべてを諸大名が負担する。

徳川の強化と豊臣の弱体化を促進するプロジェクト

名古屋城の工事を開始したのは慶長15年(1610年)。築城は天下普請によって行われ、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興(ただおき)といった西国の豊臣恩顧の大名が駆り出されている。この時期の天下普請は名古屋城だけではない。慶長14年(1609年)には丹波の篠山(ささやま)城の天下普請がはじまり、そこでは藤堂高虎、池田輝政、福島正則、加藤嘉明(よしあき)、浅野幸長(よしなが)などの西国大名が参加している。

名古屋城の天下普請には築城以外にも目的がふたつあった。ひとつは西国大名の財政を圧迫させることだ。築城の労務を大名たちに負わせることで、余剰な資金を吐き出させるのである。ふたつめは徳川に対する謀反を封じることにある。大名たちみずからに壮大で堅牢な城を造らせることで「徳川と戦っても勝ち目がない」と身をもって体感させるのである。
こんな逸話が残されている。築城の作業のさなか、福島正則が池田輝政に「家康公の城ならまだしも、なぜ、息子の義直の城の手伝いをやらなくてはならないのか」と不平をもらした。それを聞いた加藤清正は「不満があるのなら、すぐ国に帰って徳川を討つ戦の用意をすればいい」と正則の発言を戒めたという。

左:豊臣秀忠像(養源院 所蔵)、中庸・右:方広寺「国家安康 君臣豊楽」の梵鐘の画像
左:豊臣秀忠像(養源院 所蔵)、中庸・右:方広寺「国家安康 君臣豊楽」の梵鐘

家康にとって、名古屋城は徳川の権力を盤石にするための施策のひとつであった。関ヶ原の合戦以降、家康は大名たちに大坂を包囲する城を築かせる一方、豊臣秀頼には盛んに寺社の寄進をすすめている。これは豊臣家の膨大な資産を枯渇させるための施策であった。豊臣家滅亡を招いたとされる大坂の陣が起こるきっかけとなった方広寺もそのひとつだ。秀頼が奉納した大仏殿の鐘に刻まれた文字に「国家安康」「君臣豊楽」の句があり、これが家康の「家」と「康」を分断し、さらに豊臣を君主としていると非難したのである。これが慶長19年(1614年)のこと。ちょうど名古屋城の主要部分が完成した時期と重なっているのは偶然ではない。

秀吉なきあとの家康の行動は、ビジネスの視点から見ると、長期経営計画のロードマップに基づくかのような用意周到さがうかがえる。信長、秀吉、家康の3人の天下人を、それぞれ「起業家」「事業家」「経営者」にたとえる見方がある。世の中にさまざまなイノベーションをもたらした信長は「起業家」、信長の遺産を受け継いで発展させた秀吉は「事業家」、そして安定した幕藩体制を築いた家康は「経営者」というわけである。
経営学の「ラーニング学派」の説では、変化の早い経営環境下では、現場に近い実践から生まれた戦略が有効とされる。家康が用いてきた戦略はまさにそうしたタイプで、武田信玄と対峙することで軍事の機微を知り、秀吉との攻防のなかで知略の効能を思い知る。こうした学びの積み重ねが、家康の「経営者」としての能力を高めていったといえる。

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