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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー】第9回 御三家筆頭、尾張徳川家の居城 名古屋城

◎所在地:愛知県名古屋市中区本丸 ◎主な築城:慶長15年(1610年)徳川家康 徳川義直

「戦う城」としてのケイパビリティの高さを追求

左:加藤清正公(本妙寺所蔵 熊本県立博物館撮影) 右:藤堂高虎像(伊賀文化産業協会 提供)の画像
左:加藤清正公(本妙寺所蔵 熊本県立博物館撮影)
右:藤堂高虎像(伊賀文化産業協会 提供)

名古屋城はなにしろ大きい。高さは約55.6mで当時の江戸城、大坂城にひけをとらない巨大な城郭である。外観を見るだけで、この城を攻略するのは不可能と思わせる威圧感がある。築城には二大名人である加藤清正と藤堂高虎の技術が活かされている。約20mの高さを誇る天守台の石垣は加藤清正がみずから陣頭指揮をとって築きあげたものだ。

名古屋城の石垣の画像
名古屋城の石垣

熊本城と同様に、武者返し(むしゃがえし)の曲線を描いた石垣は、登ろうとする兵の気力を削ぐかのような峻厳(しゅんげん)さだ。堀の幅も約70mあり、容易に石垣に近づくことはできない。
高虎は天下普請に直接は参加していないが、名古屋城の縄張は典型的な高虎のスタイルを踏襲している。全体が直線的で、曲輪(くるわ)も長方形で設計されている。これはスペース効率と施工のしやすさを追求したもので、「見せる城」としてのビジュアルインパクトを重要視した織田信長や豊臣秀吉の織豊城郭とは一線を画す。構造がシンプルな分、城壁と出入口の防備を強化することで防御力を高めているのが特徴だ。

名古屋城昭和初期復元模型(城郭模型製作工房 島 充・作)の画像
名古屋城昭和初期復元模型(城郭模型製作工房 島 充・作)

名古屋城は防御力だけの城ではない。攻撃力こそがこの城の真骨頂だ。本丸は大天守、東北隅櫓、東南隅櫓、西南隅櫓がつながっている。それぞれに馬出しがあり、有事の際はすぐさま四方八方から出陣できるようになっている。さらに当時の設計図をみると、大天守の西側にも小天守をつくろうとしていた形跡がある。そこから西北の御深井丸(おふけまる)につながる通路を設け、出陣できるようにする構想だ。この計画は大坂の陣で豊臣家が滅んだため必要がなくなり中止となったが、大坂攻略に向けた家康の強い執念がうかがえる。本丸の北側には大規模な塩蔵構(しおぐらがまえ)があり、武器弾薬などの貯蔵庫、食料庫があった。籠城戦にも万全の準備を整えていたことがわかる。

ビジネスでは大企業病に陥る企業が少なくない。組織が大きくなると動きが鈍り、変化への対応が遅れ、弱体化する。名古屋城は巨大な城郭であるが、きわめて高いアジリティ(俊敏性)を備えている。大天守だけに司令塔の機能を集中するのではなく、四方に設けた隅櫓から出陣できるようにするなど、現場の戦況の変化にあわせて臨機応変に動けるように設計されている。組織論の観点からも興味深い示唆を与えてくれる。

事業承継モデルとして精度の高い「徳川御三家」

成瀬正成(白林寺 所蔵)の画像
成瀬正成(白林寺 所蔵)

名古屋城は徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の城である。城主となる家康の九男、義直(よしなお)は工事を開始した慶長15年(1610年)、まだ10歳にすぎなかった。これを補佐したのが尾張家付家老、犬山城主の成瀬正成(第8回参照 リンク先)である。正成は大名の資質を備えた優秀な武将だが、家康に頼まれて義直の後見人となることを了解したと伝えられている。

武家にとって後継者問題は極めて重要だ。家康の「経営者」たるところは、徳川家という「ファミリー企業」の存続をシステムとして確立したところにある。徳川家を存続させるためのリスクヘッジとして御三家を創設、本家の後継者がいなくなった場合は、この御三家から将軍を選ぶシステムとしたのだ。御三家のほうも将軍になる可能性があるとなれば、幼少から帝王学を身につけ、いつ呼ばれても将軍職を務められる素養がなくてはならない。八代将軍、徳川吉宗が紀伊徳川家から江戸に入り、将軍家の断絶を救ったように、このシステムは徳川の長期政権の礎となった。
豊臣秀吉は有能な補佐役だった弟の秀長を病気で失い、甥の秀次を自害させ、後継者は唯一の子である秀頼しか残されていなかった。この後継者不足が豊臣政権の最大の弱点であり、家康はここを突いて豊臣家を滅亡に追いやった。後継者の重要性を身をもって知っていたのが家康なのだ。

徳川家康像 (堺市博物館 蔵)の画像
徳川家康像 (堺市博物館 蔵)

義直は長じて謹厳な城主となり、学問と武芸を大いに奨励し、名古屋の発展の基礎を築いた。三代将軍の家光が急病になったときは、義直が大軍を率いて江戸に向かったという。これは政情の混乱を未然に防ぐためで、もし将軍に何かあっても代わりがいることを、みずからの行動で示すことで、徳川政権の盤石ぶりを世に知らしめたのである。義直が将軍になることはなかったが、徳川の権威を支えるうえで大いに貢献したといえる。
「経営者のもっとも重要な仕事は、後継者を育てること」と、名古屋城の歴史を紐解くことでわかってくる。事業承継に欠かせない人材育成においても、徳川家康は慧眼をもっていたといえるだろう。

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