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【あの人のモノ選】第123回「ノート」農口尚彦

身の回りのちょっとしたモノでも、その選び方・使い方には、使い手の仕事や人生に対する価値観が潜んでいます。特に周囲から注目されるような働き方ができる人は、モノを選ぶ視点も一味違い、参考になるポイントがあるはず。このコーナーでは、第一線で活躍する方々のお気に入りの道具や、日頃愛用している一品をご紹介します。
30年間書き続けている酒造りのデータブック
農口尚彦氏の画像

日本酒の原料米には、私たちが普段食べている米とは異なる酒造好適米が使われている。吟醸酒などの高級酒になると、山田錦、五百万石、美山錦といったブランド米が選ばれる。

米は自然の産物だから、性質や出来はその年の気候などによって少しずつ変化する。一方、同じ銘柄の酒の味が毎年変わってしまっては、飲む人は離れていってしまう。原料の年々の微妙な変化を技術によってどう整え、酒質や味わいを安定させていくか。それが杜氏の腕の見せどころだ。

16歳で酒造りの世界に入り、27歳から杜氏を任されるようになった農口尚彦氏は、ある時期から、米の品種、洗米時間、水温といった数値を細かに記録したノートをつけるようになった。毎年1冊。現在手元には30冊ほどのノートが残る。

「日本酒の神様」に引退の二文字はない

「人間の記憶はあいまいですからね。前の年の酒造りの細かなところはすぐに忘れてしまいます。それでノートにデータを書いて、のちのち参考にしようと考えたわけです」

さまざまな数値がびっしり書き込まれたノートは、人に見せることを想定したものではなく、あくまで自分のためのものだと農口氏は話す。

もちろん、すべてが数値化できるわけではない。例えば、麹菌を繁殖させた米の硬さや味は、指先や舌で感じ取るほかない。それは、酒造りに70年近くにわたって携わってきた農口氏だけが知る感覚である。

これまで「引退」を3度している。35年にわたって杜氏を務めた菊姫を定年退職したとき。その後、請われて杜氏となった鹿野酒造を辞めたとき。そして2年前、2年ほど勤めた小さな酒蔵を退いたときだ。しかし、その引退も幻となった。今年(2017年)、自身の蔵「農口尚彦研究所」を設立し、冬から酒造りを始めた。酒を造ることが生きることである以上、生きている間は酒を造り続ける──。口にすることはないが、おそらくそんな決意を農口氏は胸に秘めているのだろう。

「どれだけ長く続けても、酒造りが分かったとは言えないと思います」

農口氏はそう話す。酒造りの世界で「日本酒の神様」と呼ばれる男が造る酒を、私たちはこれからも飲むことができそうだ。

「ノート」
「ノート」

第123回「ノート」農口尚彦/了

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