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【現代に活きるチームの力学 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり】第5回 「上杉家臣団」〜個人主義のプロ集団〜

乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。
家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

軍神・上杉謙信を支えた独立心の強い家臣たち

上杉謙信像(米沢市上杉博物館蔵)
上杉謙信像
(米沢市上杉博物館蔵)

上杉謙信といえば毘沙門天の化身として自ら先頭に立ち、勇猛な家臣団を率いるイメージがある。しかし、その家臣団は何かと問題が多く、極めて基盤の脆弱な組織だった。徳川、織田、豊臣、武田のいずれも、家臣団を形成する段階で少なからず障壁はある。しかし、上杉の場合は人間関係が複雑で、他の家臣団とはまた違った深刻な問題を抱えていた。そうした特殊な組織を統率したという意味で、上杉謙信とその家臣団は現代のビジネスパーソンにとって、興味深い側面をもっている。

上杉家臣団のまとまりが悪かった理由としては、その成り立ちにある。謙信の本拠地である越後は、もともと山内上杉家が守護を務めていた。これを守護代だった謙信の父、長尾為景(ためかげ)が、守護の上杉定実(さだざね)を追放して実質的な越後の当主の座についたのだ。いわゆる下剋上である。これに山内上杉家、一門衆、国人衆が反発した。もともと越後の武将たちは独立心が強く、すでに自分の基盤をもつインディペンデントな事業家の集まりのような性格をもっていた。自分たちと為景の出身である三条長尾家は対等と考える領主も多く、為景を主君と認めがたい空気があったのである。
こうした事情もあり、越後では為景が実権を握ったあとも反乱が絶えなかった。そこで為景は謙信の兄、長男の晴景に家督を譲り、自分が身を引くことで混乱を収めようとした。

長尾晴景は病弱だったこともあり、当主に適さないと考えるものがいた。そこで白羽の矢が立ったのが弟の長尾景虎、のちの上杉謙信である。14歳で初陣を飾り、非凡な軍事の才能を見せた謙信を領主に据えようとする者たちがあらわれる。このとき兄弟間の確執があったとする説もあるが、最近の研究では兄弟間の関係はよく、兄が謙信の才能を認め家督を禅譲したとされる。1548年(天文17年)、謙信が19歳のときのことである。
さらに1550年(天文19年)、守護の上杉定実が後継者を遺さずに死去し、守護代の謙信は将軍・足利義輝(よしてる)から越後の国主として認められる。これに異を唱え、反乱を起こしたのが、一門衆のなかでも最大の抵抗勢力、長尾政景を当主とする上田長尾家である。謙信は政景の反乱を鎮圧し、ようやく越後の統一を成し遂げた。


勢力範囲の広がり

義将といわれた謙信のフィロソフィーに共鳴

1561年(永禄4年)、上杉謙信は守護の山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領となる。謙信は朝廷や室町幕府の権威を尊重する人であり、将軍の足利義輝(よしてる)からの信頼も厚かった。当時の室町幕府は権力が弱体化し、三好長慶(ながよし)の影響下にあった。義輝は各地の武将に上洛を呼びかけ、幕府復権の手助けを求めたが、大軍を率いて応じたのは謙信だけだった。
謙信は義将といわれる。戦国の世にありながら、基本姿勢として侵略のための戦はしなかった。その一方で、他国から救援の要請があると、できる限り出兵し、それに応えた。謙信にとって、戦はすべて私戦ではなく公戦だったのである。

義輝は謙信を関東管領に任命することで関東の勢力をまとめ、その軍勢を京都に差し向けることで三好の勢力を一掃しようと考えたのである。従来の秩序を尊重し、混乱した戦国の世を終わらせたいと願っていた謙信は、義輝のプランを遂行する役割を担った。
上杉と関東で覇権を争っていた武田、北条、今川といった武将たちは、幕府のことはあまり眼中になく、みずからの領国を拡大することに主眼を置いている。現実主義者の多かった戦国武将のなかでは、謙信のような考えをもつ武将は稀だったといえるだろう。越後の家臣団はそうした謙信の考え方に共鳴し、仕える者が多かった。
武田との戦いは武田の圧迫を受けた村上義清を救うためであり、北条との戦いは関東管領の役割を果たすものであり、織田との戦いは信長包囲網を形成する足利義昭の要請に応えたもので、それぞれに義がある。

武田信玄像(国立国会図書館蔵)
武田信玄像(国立国会図書館蔵)

義将としての謙信を語るうえで、特に有名なのが「敵に塩を送る」エピソードだ。武田信玄が治める甲斐の国が、今川との交戦で塩が入手できなくなり困っていたところ、謙信が越後の塩を融通したという話だ。「海に面していない甲斐に塩止めすれば、困るのは民である。わたしは武田軍と矛を交えて久しいが、米や塩で民を苦しめようと思ったことはない」。謙信はそう語ったという。

上杉家臣団の旗(再現)
上杉家臣団の旗
(再現)
毘沙門天
毘沙門天

まとまりの悪い組織だからこそ、「義」のような理念が組織をまとめる背骨になる。ビジネス界でも合併や統合を行って大きくなった会社は、CI(コーポレート・アイデンティティ)の確立に力を入れることが多い。出身も考え方もバラバラのスタッフをまとめ、結束力を高めるには共通の理念のようなものが必要になる。
上杉家臣団においては「義を実践する毘沙門天の化身」がCIの中核をなすコンセプトで、毘沙門天をあらわす「毘」の旗は、そうした理念を視覚的に体現したVI(ビジュアル・アイデンティティ)といえる。信玄の旗印「風林火山」が組織のスタイルを表現しているのに対して、謙信の旗印「毘」は組織のフィロソフィーを表現していると解釈できる。こんなところにも家臣団の特性があらわれている。

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