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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー】第6回 豊臣と徳川の攻防を伝える城 大坂城

なぜ、そこに城があるのか。なぜ、このような構造なのか。軍事要塞である城には、城主の知恵や思惑が潜んでいる。その戦略の立て方は現代のビジネスにも通底することが多い。主要な建造物が現存する名城を中心に「戦う城」の実力に迫る。

◎所在地:大阪市中央区大阪城
◎主な築城:天正11年(1583年)豊臣秀吉 元和6年(1620年)徳川秀忠

日本を二分した権力闘争の舞台となった巨大城郭

大坂城(PIXTA)の画像
大坂城(PIXTA)

大坂城ほど劇的な運命を辿った城はない。豊臣と徳川という二大勢力が真正面から衝突した舞台だったからだ。ひとくちに大坂城といっても、3つの城が存在する。まず豊臣秀吉の築いた豊臣大坂城、次に徳川秀忠の築いた徳川大坂城、そして現在の復興天守である。
豊臣大坂城は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で徳川の攻撃によって炎上する。その後、徳川が築いた城は、豊臣大坂城の土台(または石垣)を埋めた上に建造したものだ。その天守は寛文5年(1665年)に落雷で焼失して以来、再建されることはなかった。現在の天守は昭和6年(1931年)に復興されたもので、徳川大坂城の天守台の上に、豊臣大坂城をもとにした天守が築かれている。資料では豊臣大坂城は全体が黒壁だが、復興天守は望楼部分のみ黒壁でその他は白壁になっている。これは徳川の城である名古屋城も参考にしたためといわれている。現在の大坂城は豊臣の城と徳川の城のハイブリッドなのだ。

豊臣秀吉像(高台寺所蔵)徳川秀忠像(松平西福寺 蔵)の画像
豊臣秀吉像(高台寺所蔵)徳川秀忠像(松平西福寺 蔵)

秀吉の大坂城の土台(または石垣)を地下に埋めたのは、徳川大坂城を新たに築くにあたり、秀吉色を一掃するためといわれてきた。しかし、すべての建造物が焼失していたのにも関わらず、縄張は豊臣大坂城のものとそう大きくは変わらない。桜門、大手門、極楽橋、千貫櫓などの名称も豊臣大坂城のものが継承されている。秀吉色を排除するのであれば、新しい縄張、新しい名称に改めることが道理のように思える。徳川大坂城の普請総指図役として縄張を担当したのは築城の名手、藤堂高虎(第5回ご参照)だ。彼がこだわったのは高い石垣を築くことだった。本丸の石垣は30m以上もあり、日本一の高さである。豊臣大坂城を埋めたのはこの高石垣を築くためであり、豊臣色の排除が必ずしも目的ではなかったという見方をする人もいる。

ビジネスにおいても、同業者の跡地や施設をそのまま使用することがある。すでに効率や使い勝手が検討された立地や設計であることが多く、その場合は構造をあえて大きく変える必要がない。豊臣大坂城は前の天下人の城であり、防御や水利を含めて極めて完成度が高い。石垣さえ高く築くことができれば、あとは従来通りのほうが工期が短くコストも安くつく。そんな合理的な判断がはたらいたのかもしれない。

左から 大手門と千貫櫓、極楽橋、桜門(PIXTA)の画像
左から 大手門と千貫櫓、極楽橋、桜門(PIXTA)

豊臣ブランドのシンボルとして機能した「見せる城」

大坂はもともと一向宗の本山、石山本願寺があった場所だ。この地に早くから目をつけていたのが織田信長である。海陸ともに交通の便がよく、海外貿易に積極的だった信長にはまさに絶好の場所だった。天下統一の際には大坂を本拠地にしたいと考えた信長は石山本願寺にこの地を譲るよう求めたが、相手は頑として首を縦に振らない。11年間におよぶ抗争の末にようやく手に入れたが、まもなくして信長は本能寺に倒れる、その遺志を継いだのが豊臣秀吉だ。好立地ということは、攻めやすいということでもある。その弱点をカバーするように設計されたのが大坂城なのだ。

豊臣大坂城の縄張を担当したのは、黒田官兵衛(如水)である。軍師のイメージが強い人だが、城の建造に卓越した才能を発揮し、加藤清正、藤堂高虎とともに、三大築城名人に数えられる。官兵衛は石山本願寺跡の台地を造成し、堅牢な石垣を築いた。本丸を内堀と外堀で囲み、さらに天然の河川と運河によって囲むなど、鉄壁の防御態勢を敷いている。「戦いの城」としては最高峰ともいえるスペックを備えた難攻不落の城だった。

豊臣大阪城 天守閣模型(城郭模型製作工房 島 充・作)の画像
豊臣大坂城 天守閣模型(城郭模型製作工房 島 充・作)

さらに、秀吉の大坂城は何よりも「見せる城」としてのパフォーマンスを重視していた。絢爛を極めた城の偉容を見せつけることで天下人の権勢を印象づけるのである。秀吉の大坂城が実際にはどのような姿をしていたのか。その手がかりとなるのが、官兵衛の子である黒田長政が描かせたと伝えられる『大坂夏の陣図屏風』だ。そこには落城直前の大坂城の姿が精緻に描かれている。建物全体が黒壁で、金箔瓦をはじめとする金の装飾がふんだんに施され、重厚な印象を放っている。現在の大坂城はこの絵をもとに復興されたが、黒壁が一部にしか採用されていない、金の装飾が少ないなど、いくつかの点で異なっている。



大阪城跡出土の金箔瓦(大阪府教育委員会 所蔵)の画像
大坂城跡出土の金箔瓦
(大阪府教育委員会 所蔵)

豊臣大坂城が黒壁なのは金色がもっともよく映えるからだという。秀吉の旗印が文字も図柄もなく金一色であったように、金は豊臣のテーマカラーである。金をあしらった城そのものが豊臣政権の強大さを示すシンボルであり、金箔瓦は豊臣ブランドを想起させるビジュアル・アイデンティティのような役割を果たしていたとされる。いわば豊臣コーポレーションのフランチャイズであることを示す看板のようなものだ。各地の配下の大名に同じような城を築かせ、金箔瓦を使用する許可を与え、城の装飾とすることで、豊臣支配の広がりを「見える化」したのである。秀吉の金箔瓦が見つかった城は20カ所以上あるといわれ、豊臣のブランド戦略が思った以上に広く浸透していたことがうかがわれる。

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