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【「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー リターンズ】第1回 東北の要となった堅固な城塞 会津若松城

戊辰戦争において旧幕府軍の拠点となった会津若松城。会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が約5,000名の会津藩士とその家族とともに1カ月にわたる籠城の末、降伏した歴史的な舞台である。新政府軍の猛攻をしのぎ、無数の砲弾を浴びながらも落城を免れた堅城だった。なぜ会津にこのように壮大で堅牢な城が築かれたのか。その背後に潜む武将たちの戦略をひもとく。

蒲生氏郷がもううじさとが築いた豊臣政権巨大シンボル

会津若松城
会津若松城

磐梯山を望む地にそびえる会津若松城。正式には鶴ヶ城、もしくは若松城と呼ばれる。明治の新政府軍と旧幕府軍が激しい攻防を繰り広げた会津戦争の舞台のイメージが強いが、その歴史は古い。時は南北朝時代、南奥州に一大勢力を誇っていた蘆名直盛(あしななおもり)がこの地に城を築いたという。元中元年/至徳元年(1384年)のことである。以来、黒川城と呼ばれ、蘆名氏が本拠地としてきた。
転機が訪れたのは、天正17年(1589年)。東北で勢力を拡張する伊達政宗がこの城を攻め、会津を自分の領地とした。天下統一に向けて動いていた豊臣秀吉は、この行動を諌め、政宗が小田原の北条攻めに非協力的だったこともあり、会津を没収する。かわりに領主となったのが、伊勢松坂を治めていた蒲生氏郷(がもううじさと)である。文禄元年(1592年)のことだった。

並外れた実力を備えながらも、経営トップの交代によって、本部のある中央から離れた部署に配属されることはビジネスではよくある。熾烈な権力争いが渦巻く戦国の世では、そうした人事政策が権力を強化する有効な手段となっていた。会津に「配置換え」となった蒲生氏郷は、そうしたパワーゲームに巻き込まれた典型ともいえる武将だ。織田信長の娘婿であり、重臣だった氏郷は、信長の後継者と目されていたほど才能に恵まれた逸材だった。だが、信長の死後に覇権を握った秀吉によって大きく運命が変わる。
蒲生氏郷は豊臣秀吉に信頼されていた反面、その才能を恐れるあまり、会津に遠ざけられたという説もある。真偽のほどは定かではないが、こんな逸話が残されている。秀吉が家臣たちに「100万の大軍の采配をさせたい武将は誰か」と問いかけたとき、家臣たちが徳川家康や前田利家の名を挙げるなか、秀吉だけが蒲生氏郷だと答えたという。また秀吉は会津への移封を決めるなかで「蒲生氏郷を上方に置いておくわけにはいかない」と側近にもらしたと伝えられる。

蒲生家紋 「立鶴紋」
蒲生家紋 「立鶴紋」

鶴ヶ城という名の由来は、白亜の壁に赤瓦の姿が鶴を想起させるからと思われがちだがそうではない。「鶴」は蒲生氏の家紋「立鶴紋(たちづるもん)」によるものである。そもそも氏郷の築いた城は白ではなかった。それは漆黒に金箔をあしらった豊臣政権のシンボル「黒い城」であり、しかも七重の天守をもつ豪壮な城だった。氏郷の築いた城は天災で傾いてしまい、蒲生氏のあとに城主になった加藤嘉明と子の明成によって天守が改修されている。現在の会津若松城は、この加藤氏の築いた天守を復元したもので「秀吉の黒い城」の面影はない。

先端をいく技術文化でイノベーション

豊臣秀吉が蒲生氏郷を会津に移封した狙いは大きく二つあった。一つは東北を拠点に勢いを増していた伊達政宗を封じるためである。もう一つは関東に移封された徳川家康を監視するためである。会津は地政学的に極めて重要な地であり、よほど能力の高い武将でない限り、ここを任せることはできないと秀吉は考えていた。それが氏郷だったのだ。自分の地位を脅かす存在になるかもしれない男ゆえに遠ざけたい。しかし、武将としての力量は捨てがたく、天下統一を推し進めるためにこの男は欠かせない。そんなアンビバレントな感情が秀吉にあったといわれている。
伊勢松阪12万石から会津42万石への大抜擢である。その後、さらに92万石に加増され、氏郷は前田利家の加賀百万石に匹敵する有力大名となったのである。

蒲生氏郷は近江の生まれで9歳にして織田信長の人質となり、信長の小姓として過ごした。信長にその器量を見込まれ、信長の次女をめとり娘婿となる。この信長のそばで仕えた経験が氏郷に大きな影響を与えた。海外に目を向けていた信長からグローバルな視野を学ぶ。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスとも面識があり、西洋の情報を得たという。蒲生家の当主となってからはロルテスというイタリア人を家臣に加え、ローマと通商をしていたという記録も残されている。
本能寺の変のときは、安土城にいた濃姫をはじめとする織田家の一族を、自分の城である近江の日野城にかくまい、明智光秀との対決姿勢を明確に示した。信長の死後は豊臣秀吉に従い、多くの武功をあげ、伊勢松坂の領主となる。

若くして信長のもとで領国経営を学んできた氏郷は、武勇に優れているだけでなく、第一級の教養人であった。近江、伊勢という古くから優れた商人を輩出していた国を本拠地としていたため、商業や経済にも明るかった。また千利休の高弟として知られる茶人であり、レオンという洗礼名をもつクリスチャンでもあった。文武両道というだけでなく、最先端の洗練された都市文化をも身につけたパワーエリートだったといえる。
それだけに会津に移封になったときは「都落ち」のショックで落胆を隠さなかったという。だが氏郷は気持ちを切り替え、会津を発展させることが将来につながると考えた。

7層の黒塗りの天守閣「黒川城」想像模型
7層の黒塗りの天守閣「黒川城」想像模型

蒲生氏郷が会津に来たときの黒川城は、土塁と堀をめぐらした中世スタイルの城館であり、城下町の整備もなされていなかった。この地に近世城郭の会津若松城を築くとともに、町を新たにつくり、さまざまなイノベーションを起こしたのが氏郷だ。
氏郷の先進性は人材活用にも見られた。会津移封の条件として氏郷は、戦乱によって主君を失った家臣など、奉公先のない武将たちを採用したいと秀吉に願い出て認められる。ここから多くの優秀な家臣を得たという。また氏郷自らが風呂を焚いて家臣を労ったり、92万石に加増されたときは家臣の禄高を家臣自身に決めさせたという。こうしたふるまいは氏郷への信頼を深め、家臣の心をつかみ、家臣団の強化に結びついたという。現代のビジネスでは、従業員満足は重要な企業戦略とされるが、氏郷は戦国の世においてすでに実践していたのである。

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